カテゴリー: 御家人GO!知れば楽しい埼玉県史
宝珠花エレジー【庄和町】
渋沢栄一の女好きについて
女の敵! こんな男が新しい1万円札の顔なのか! 厳しい意見の飛び交う昨今ではありますが、時代の背景を見ていくとスケベの一言では片付けられない切ない事情もそこにはあることが分かります
という訳で今回は、渋沢栄一の生きた時代、埼玉県はスケベとどう向き合っていたのか、を見ていきたいと思います
栄一がスケベだったのは二番目の奥さんも
栄一さんも論語とはうまい物を見つけたよ、あれが聖書だったらてんで守れっこないものね(性道徳に厳しい聖書だったら身が持たなかっただろうということですね)
こう言っているので間違いないのですが、そればかりではなかった、かもしれません、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
大河ドラマ青天を衝けの中に、栄一が商業施設の女性を部屋に連れ込みチョメチョメしてしまうという場面がありました
この場面を見て「浮気だあ」と憤った方、考えてみて下さい
従業員の女性を強引に連れ込みチョメチョメする
完全に犯罪ですね
いくら明治時代の初期であっても、栄一が政府のどエライ高官であっても、当たり前ですが許される事ではありません。つまりこれはそもそもが
エッチなお店に居た
ということですね。たぶん遊廓と呼ばれるところであったろうと思います
旧埼玉県には、こっち側ですね、江戸時代より、中山道・日光街道・日光御成道の三街道に沿って多くの宿場があり、そのほとんどの宿場に飯盛女と呼ばれるスケベを担当する女性の存在がありました
このスケベな存在を旧埼玉県は不思議なくらいの情熱を持って廃絶させようと動くのですが、その前段として
マリヤ・ルーズ号事件
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学校では教えてくれない日高市女影【日高市】
偽りの◯◯、◯◯の真実、ここまで分かった◯◯の秘密など、その書籍がいわゆるトンデモかどうかはある程度タイトルで判断出来る、というのは私も概ね同意なのですが、地域史に限っては書かれた年代が何よりも重要、と感じるこの頃だったりもするんですね
その理由はタブーです
差別や人柱など、地域の価値や評判を下げかねないテーマについては、感覚ですけど昭和40年代前半を境に書かれなくなっているような気がします
という訳で今回は、日高市女影の由来について書かれた
昭和40年代前半までの書籍を
数冊入手しましたので、日高市の方には大変申し訳ないのですが、令和の世では絶対に書くことが出来ないであろう
衝撃の真実を!
白昼の元に晒してやりたいと思います
太平記にも登場する、すなわち「女の影」の正体、とくとご覧に入れましょうぞっ
時は戦国の世、このあたりに雷山城と呼ばれる半山城があった
この城には登喜という姫がいた。登喜は幼い頃から馬を愛し、父の愛馬音菊をもらいうけると、毎日近くの原に美しい馬上姿を現していた
しかしある秋、戦国の風雲は急を告げ、敵の大軍がこの城を幾重にも包囲し攻め立ててきた
城主はもはやこれまでと、自害して果てた
登喜は城を抜け出し千丈ヶ池の畔までくると、追っ手の気配を感じ、そばにあった松の木に登り身を隠した
しかし追ってきたのは音菊だった
音菊は登喜の香りを慕ってここまで走ってきたのだ
音菊は登喜の姿を探した
そして音菊は水面に映った
登喜の影を見ると
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昭和恐慌と埼玉県
遅ればせながら先日の金曜ロードショーにて初めて「風立ちぬ」を視聴、深い感銘を受けましたので、作品の背景より一本お送りさせていただきます!
昭和恐慌という取っ付きにくいテーマではありますが、今の私たちの暮らしに直結していく出来事ばかりですので、どうぞ最後までお付き合いくださいませっ
ご覧になった皆さまの心にそれぞれ印象に残った場面があったかと思うのですが、今回は恐らくどなたの心にも残らなかったであろういくつかの場面より、その時の埼玉県がどうなっていたのかを見ていきますね。
先ずは年代と時代背景です。冒頭、関東大震災の場面が描かれていました。関東大震災は大正12年の出来事ですので、以下のセリフより
まさか、もう二年も前のことだよ
正月に帰るからお父さんに話してあげるよ
4月中ならいつでも良いとのことでした
二郎が名古屋に入ったのは大正時代最後の年、大正15年の春であったと仮定して話を進めていきますね。
その二郎が名古屋へ向かう汽車の中から、このような光景を目の当たりにしました。
そりゃあ仕事を探しに出てくる連中だな
第一次世界大戦の「反動恐慌」という奴ですね。大戦でめちゃめちゃになったヨーロッパ各国が市場に復帰、作れば売れると過剰生産気味だった国内産業はたちまち輸出不振となり、従業員の解雇・休業・倒産が相次ぐことになりました。
昭和3~4年の浅間山大噴火
噴火による降灰で葉物野菜が壊滅的な被害を被ります。さらに皮肉なことに4年はお米が未曽有の大豊作。獲れ過ぎによる取引値の下落で農家は大きな打撃を受けることになりました(3年は二度の洪水)
世界恐慌
同じ頃、ニューヨークの株式証券取引所が大暴落、いわゆる「世界恐慌」が始まります。国内の生糸の約90%はアメリカに輸出されていましたので、生糸業者はもちろん、お蚕さま(生糸の原材料)を副業にしていた農家も現金収入の道を絶たれることになりました。
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彰義隊と扇町屋【入間市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんですっ
今回は入間市豊岡にあるコチラの石碑について詳しく知っている、というか当事者の方ですね。殺っちゃった側の方に古い書籍の中で出会ってしまいましたので、当時の事をお伺したいと思います
それではご紹介させて頂きます! 入間市にお住まいの万右衛門さんですっ
事件のあった当時、万右衛門さんは22歳であったと伺いました。ということはこの書籍は昭和10年ですから、えーっと…
87になったな
ですよね、お若いですよね!
耳は遠くなったけどな、あの時のことは忘れねえな
慶応4年、3月29日のことでしたね
扇町屋の藤間屋という旅館に、一見幕府方の武士がどかどかと13人も乗り込んできてな、扇町屋の名主、栗原良平さんと、大総代の長谷部さん、増田さんの3人が呼びつけられたんだ
そしたらな、首領らしい男がな
我々は彰義隊の一派だ。この度、徳川再興のため旗揚げすることになったので、軍用金千両、明日中に調達して欲しい
無茶な要求を申し伝えてきてな
長谷部さんら三人は「何分額が額なんで相談の上で…」と、一先ず藤間屋を後にして、黒須、高倉、小谷田、藤沢、笹井、根岸、広瀬だったかな、急使を走らせて名主役の臨時会議を開いたんだ
千両とは、またとんでもない額ですね
おとなしく千両出すべえか、という意見も出るには出たんだよ。だけんど千両は大金、おいそれと出るもんじゃあねえ。結局、こういうことをハイハイ聞いていたら癖になる、服装や挙動から察するに恐らく偽物でもあろうから、一つ脅かして追い出しちまうべということになったんだな。こちらにも万一の時のためにそれなりの準備があったしな
慶応4年の3月というと、ちょうど江戸を攻める官軍が埼玉を通過した頃ですね
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もしかしてあの水子【富士見市】
ググっても地名辞典を見ても、いわゆる「水子」に寄せる説というのは見当たらないのですが、先日購入した古い書籍の中に、いわゆる水子が由来であるというエピソードを発見してしまいました。なので今回は
もしかしてあの水子?
富士見市水子に接したほぼ全ての方の脳裏に横切ったであろうこのハテナについて見ていきます!
伝説の域を出ることはありませんが、人権も何もあったもんじゃなかった時代の最悪な、いや、心の洗われるようなエピソードでしたので(ウソ)、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
時は天正6年3月とあるのでちょうど上杉謙信の亡くなった頃のお話ですね。今の富士見市水子の大原というところに、勘右衛門という百姓一家が住んでおりました
その勘右衛門の家に、ある日の夕暮れ、一人の若い僧が訪ねてきて、一晩の宿を乞います
しかしこの勘右衛門という男。悪の限りを尽くしてきたような人物で、仏心などはこれっぽっちだって持ち合わせてはおりません
軽く門前払いをする…
のかと思いきや、なぜかこの時ばかりはどうした機縁か、僧の乞われるままに止宿させ、しかも16、7の娘にも給仕させ、そして翌朝、僧を快く旅立たせてあげたのでした
ところが後日、勘右衛門は娘が
子を宿していることに気が付きます
いつぞやの僧であろう!
勘右衛門は腹を立て娘を激しく責めたてます、が、娘はまったく身に覚えがない、これは怪異のことであると否定するより他がありませんでした
こうして親子の間に釈然としないものを残したまま、月は満ちて、娘は無事、男の子を出産しました
そこに例の僧がひょっこりと現れます
勘右衛門は恩を仇で返した所業に対し、あらん限りの暴言を浴びせかけ
お前の子だ、引き取れ!
そう強く責めよりました
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明治コレラ一揆【川口市】
感染者数過去最多ま!
などと宣うのも飽き飽きするほどの勢いでコロナの拡大が続いておりますが、こういう時こそ人類はどのように疫病と向き合ってきたのか、過去から知見を得るべきではないかと思うんですね
という訳で今回は、明治12年、愛知県で発生したコレラが埼玉県に伝播、北足立郡新郷村本郷通りの油屋のお婆さんが亡くなり、そのお婆さんのお葬式がクラスターとなり、瞬く間に川口市周辺を絶望の淵へと叩き落したコレラ騒動について見ていきます!
マスク派もノーマスク派も、ワクも反ワクも、分断は少しだけお休みして、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
それでは初めに、明治政府の実施したコレラ対応の一部をご覧いただきますね
家という家にナワを張り健康な人であろうと関係なく強制ステイホームさせた。ロックダウンですね
患者のいる家は門にその旨を張り出すこと、死んだコレラ罹患者の運搬の際は黄色の小旗にコレラと書くよう通達した
大衆の集まる、芝居、寄席などの興行を当分の間すべて禁止することを命じた。また、悪病退散と称して神輿をかつぎコレラ退散を祈祷するようなことが行われていたのでこれも禁止した
痛みやすい、スイカ、真桑瓜、モモ、ナシ、柿、カニ、シャコ、タコ、イカ、エビ10品目の流通を禁止した
不潔な便所やごみ捨て場、ドブなどをよく清掃し、石炭酸、硫酸、亜酸化鉄などで消毒するよう指示をした
コレラ患者の発生の多い地区に検疫出張所を設置、県から委員を派遣、検疫指導に当たることにした
埼玉県は草加警察署の警官を北足立郡東本郷村(現川口市)に派遣、傑伝寺を防疫本部とし、コレラ患者はもちろん、少しでも下痢などの症状があればどしどし隔離、消毒を行った。また、全棟寺の裏山に大きな穴を掘り、患者を出した家の家財道具、寝具、衣類などを焼いた
ステイホームやイベント等の禁止など、今とまるで同じ項目もありますね。ただ、警察の方は登場しましたが、お医者さまがいらっしゃいませんよね?
医者はまだいなかった?
いえいえ、県が各市町村に配布したコレラ予防薬は県立医学校が調剤していますので、いなかったということはないのですが、埼玉にはコストのかかる医者の養成などは東京にやらせれば良いという「東京依存根性」があり、医療についてはあまり積極的ではなかったんですね
そしてもう一つ。これが騒動の一番の原因になったと思うのですが、明治政府の富国強兵政策の下で、住民生活の向上、環境整備といった福祉民生面は二の次三の次、極めて軽視されていました。ことに
衛生行政は警察の支配下に
置かれていたということがあり、コレラ対策といってもひたすら取り締まりと強制隔離に終止。中には本庄警察署の新庄・土肥巡査のように不眠不休で職務に没頭するうちに自ら感染し殉職した若い警察官もいましたが、お巡りさんですから専門的な知識はありません。抜本的な対策は何もありませんでした
警察のこの場当たり的なやり方に、川口民が猛反発!
…
汲み取り業者と埼玉県
調査の始まった1920年以来、一世紀に渡り一度も人口減に転じたことのない唯一の県、埼玉県
という訳で今回は、埼玉県の人口が現在の730万人に至るまでの過程で起きたある出来事について見ていきます
食べれば出る
すべての埼玉県民に関係のあるお話ですので、どうぞ最後までお付き合いくださいませ!
それでは初めに、埼玉県の人口が増加するきっかけとなった出来事に触れておきますね
先ずは関東大震災。比較的被害の少なかった浦和大宮の地盤の固さに注目が集まり転入者が増加。東京で被災した植木屋さんが
良い土だな
ここで一からやり直すか
大宮の土壌に惚れ移転、開いた場所が今の大宮盆栽村ですね
次に戦争です。本土空襲が激しくなると、東京から埼玉に疎開をする人が増え、東京大空襲など、帰る場所も頼る人も失い、そのまま県民になってしまうというケースがありました。戦争終結の昭和20年には、埼玉県の人口は200万人を突破します
100万人を突破するのが明治18年なので、100万人増加するのに60年を要したことになりますね
高度成長期。東京・京浜工業地帯の過密化により埼玉に進出する工場が増え、それに伴い従業員も越してきます、住宅地の開発、団地等の建設が活発化しました。昭和34年の西本郷団地(大宮)、35年の上野台団地(上福岡)、37年の草加松原、南浦和団地、40年の武里団地(春日部)などが代表的なものですね
この後(昭和40年)埼玉県の人口は300万人を突破します。200万人突破が昭和20年でしたので増加のスピードは3倍
昭和30年代は、埼玉県が農業県から東京のベッドタウンへ転換していく過渡期の10年でもありましたので、今と同じですね。都内に出やすい県南地域に特に人が集中してしまいました
昭和35年、その人口爆増中の県南で問題が起きます
人件費、その他もろもろ資材の高騰などを理由に清掃業者、と言うと分かりにくいので「汲み取り業者」と呼ばせていただきますね。皆さんのお出しになられたうんちやおしっこを回収する汲み取り業者が、各市町村に対し値上げを要求、汲み取り業務が滞り始めました
山岡鉄舟と天覧山【飯能戦争⑱】
長々と綴ってまいりました飯能戦争もいよいよ最終回!!
ここまで読んでくれた方がどれだけいたかは存じませんが、これを機に飯能の戦跡を歩いてみようという歴史ファンも少しは増えたのではないかなあと思います。
そんな方に先ず見ていただきたいのが、能仁寺の正面にあるこの看板!
山峡に歴史を訪ねるコース
官軍の主力部隊である、大村、佐土原、備前の三藩は、いずれも自分達の隊が「イチバン」に能仁寺に攻め入ったと主張をしてはばかりません。
つまりこの場所は、官軍が鬨の声をあげ、雨のように銃弾を浴びせかけながら、競うようになだれ込んだ飯能戦争の激戦区!
広い駐車場はあるしトイレもある。飯能戦争の戦跡巡りは、この案内板からのスタートが定番中の定番なんですね~♪
って、フツー思うでしょ?
アップで見てみましょう。
戦争の「せ」の字もないですね。
結論から言います。埼玉県内で行われた唯一の戊辰騒乱「飯能戦争」には、はっきりとした理由は分からないのですが
隠ぺいされた
形跡があります。
という訳で飯能戦争の最終回は、なぜ飯能市は、いや埼玉県は、この戦争を隠さなければならなかったのか。この謎について考えたいと思います。
今回も長くなってしまう予感がしますが山岡鉄舟と天覧山の関係を書かずして飯能から離れる訳にはいきません! どうぞ最後の最後までお付き合い下さいませっ
第13話「それぞれの開戦前夜」より一部を引用しますね。
飯能にとって喜作たち振武軍の来訪は迷惑なものでした。
ところが伝わっている風説を見ると必ずしもそうとはいえない状況も見えてくるんですね。…
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平九郎の最後【飯能戦争⑰】
平九郎の最後の様子を現代の私たちは詳しく知ることが出来ますが、ここに至るまでの経緯は、まさに
奇跡の連鎖
と、呼べるものでした。
という訳で今回は。平九郎はなぜ、越生は危険だと忠告されたにも関わらず黒山に降りてしまったのか。
考えても答えの出ない問題や
平九郎は広島藩兵とどう戦ったのか。
ググればすぐに分かることではなく、彼の命の残り火が呼び寄せたとでも言えばいいのでしょうか、この「奇跡の連鎖」について見ていきたいと思います。
飯能戦争も残すところあと2回。平九郎の退場という重い回になりますが、どうぞ最後までお付き合い下さいませ!
明治の世になり十有余年経ったある日のこと。
このメモをどうした...
そんなことよりどう思うよ、新五郎さん
間違いねえ、平九郎だ…
新五郎に「メモ紙」を見せたのは、手計村のすぐとなり、中瀬村の斉藤喜平という方でした。
斉藤はある機会に畠山村(現深谷市)の丸橋さん宅でメモに遭遇
これは平九郎の最後を描いたものに違いない
そう確信し、急ぎ新五郎の元へと駆け付けます。
こんなメモがなぜ深谷市畠山に存在していたのか、あの日に戻って考えますね。
メモを書いたのは東秩父村の医師、宮崎道泰という方でした。宮崎は戦争のあったあの日、官軍の求めに応じ医師として越生の部隊に従軍、傷ついた兵の治療等に当たっていました。…