平九郎の最後【飯能戦争⑰】
平九郎の最後の様子を現代の私たちは詳しく知ることが出来ますが、ここに至るまでの経緯は、まさに
奇跡の連鎖
と、呼べるものでした。
という訳で今回は。平九郎はなぜ、越生は危険だと忠告されたにも関わらず黒山に降りてしまったのか。
考えても答えの出ない問題や
平九郎は広島藩兵とどう戦ったのか。
ググればすぐに分かることではなく、彼の命の残り火が呼び寄せたとでも言えばいいのでしょうか、この「奇跡の連鎖」について見ていきたいと思います。
飯能戦争も残すところあと2回。平九郎の退場という重い回になりますが、どうぞ最後までお付き合い下さいませ!
明治の世になり十有余年経ったある日のこと。
このメモをどうした...
そんなことよりどう思うよ、新五郎さん
間違いねえ、平九郎だ…
新五郎に「メモ紙」を見せたのは、手計村のすぐとなり、中瀬村の斉藤喜平という方でした。
斉藤はある機会に畠山村(現深谷市)の丸橋さん宅でメモに遭遇
これは平九郎の最後を描いたものに違いない
そう確信し、急ぎ新五郎の元へと駆け付けます。
こんなメモがなぜ深谷市畠山に存在していたのか、あの日に戻って考えますね。
メモを書いたのは東秩父村の医師、宮崎道泰という方でした。宮崎は戦争のあったあの日、官軍の求めに応じ医師として越生の部隊に従軍、傷ついた兵の治療等に当たっていました。
刀傷だな。切り合いでもしてきたのか
黒山というところを警備していたら、賊の兵が一人山から降りてきてな。いきなり斬りつけてきよったんじゃ
ほう…で、その賊はどうした
味方が一人殺られて、こいつが銃を放とうとしたんじゃが、そいつが向かってきたんでな、オレが後ろから斬った
仕留めたのか
いやあ、すさまじい気迫でなあ、斬られてもなお向かってくるから援軍を呼ぼうとこいつと一旦退いたんじゃ。戻ってみたら、石の上で腹を切って果てておった
凄かった…
ああ、凄かったな。
宮崎医師は、よほど惹かれるものがあったのか、治療をした広島藩神機隊の二名より、詳しく、賊兵の姿格好、戦闘の状況などを聞き出し、一枚のイラストを仕上げます。
そして帰路の途中、立ち寄った畠山村の丸橋宅にて、越生での出来事を話し、乞われるままにこのイラストを丸橋家にくれてしまいました。
その頃、飯能市井上を突破した喜作ら8名は、鎌倉橋を渡り峠の頂上から吾野宿に官軍が来ていないことを確認した上で吾野宿に一泊。夜明け前に吾野を発つと、平五郎と別れ、ときがわ町経由で群馬県の伊香保温泉郷に逃れていました。
伊香保で新五郎が二つ、詩を作っておりますので、ちょっと見ておきますね。
高堂なほ老衰の親あるに
国事紛紜として我が身を悩ます
半歳の周旋みな蹉躓(さち)す
如今斬鬼す故郷の人
意味はこんな感じでしょうか。
私には年老いた両親もいるというのに国が乱れ悲憤慷慨し、いても立ってもいられず奔走した。しかしこの半年はやることなすこと皆つまずいた。今はただ深谷の皆さんに恥じるのみである。
もう一つ
脱し来たり酣戦場
復た弄す旧文章
たちまち憶ふ千兵敵ずるを
憮然として玉觴を砕く
復た弄す旧文章…のところがさっぱり分からないのですが、戦いもたけなわの戦場から逃れてきた。多くの兵が死んでいった情景を思い出し憮然とさかずきを投げた、てな感じですかね。
ええ、めっちゃ後悔してますね。
思い返せば新五郎は、一橋家から手紙をもらい、鼻の穴を膨らませながら! 喜作のいる京都を目指し手計村を飛び出していきました。
しかしこの時から本人が言うように彼はつまずきっぱなしでした。そして
この伊香保に
平九郎の姿はありません。
この時の後悔を新五郎は富岡製糸場の役職を勤めていた時も、そしてその後も、ずっと背負っていたと思います。もとはといえばいい歳なのにミトミトミトミト言っていた自分が起点な訳ですからね。
そこに届けられたものが、先ほどのイラストでした。
イラストには、平九郎の胸に忍ばせてあった詩が三つ、書き写されていました。
新五郎ですから、それが平九郎のものであることは一目で理解出来たでしょう。
新五郎は、あの日の飯能を手繰り寄せるように、再び、戦地に赴きます。
あっという間のことだったな。脱走様(だっそさま)がもの凄い勢いで斬りかかったと思うと鉄砲が鳴ってな。すぐに終いになった、なあ
んだ、あの石に腰かけて腹切ってな、喉も突いとった。墓はすぐそこの寺にある。名前も分からんかったから、法号は適当だけどな
秩父神社の神官の倅だあ言うんだけど、中仙道はどっちだ聞くんでわたしゃすぐ分かってね。黒山から越生に出れば中仙道には行けるが越生には錦布がおるで左の尾根伝いにいかっしゃい、言ってやったんだ。草鞋を譲ってやったな。金はちゃんと置いていったよ
ああ、よく覚えてっぞ。延次郎があんたらを連れてくる少し前に何人かの脱走さまが村にきたんだで。そのうちの一人が陣羽織なんて着てっから、それじゃあ目立つってんで、ボロい着物と笠を貸してやったんだ。名前は名乗らなかったな
平五郎? ああ、あいつはあんたらを助けたっちゅー噂が広まってな。村に居られなくなって出ていったな
そうか、それは済まないことをした…
なあに平五郎のこった、どっかでしぶとくやってんだんべよwww
平九郎のカケラを一つ一つ拾い集める新五郎の胸中にどのような想いが去来していたのか。それは想像するしかないですし、少しでも救われるものがあればいいなと思いますが、越生でのヒアリングは、決して良いものばかりではありませんでした。
新五郎の後悔はさらに深いものになっていたかもしれません。
が、これも想像するしかありませんので、最後に平九郎の残した三つの詩を紹介し、今日のところは以上とさせていただきます。
詩の解釈はそれぞれ皆さんにお任せしますね。
惜しまるる時ちりてこそ世の中の人も人なれ花も花なれ
いたずらに身はくださじなたらちねの国のために生にしものを
夏日夕陽 渓に臨んで氷を得たり
平九郎さんについてのブログ、拝読しました。
途中、平五郎と記載されているのは平九郎さんの事なのでしょうか?
また、吾野に一泊したとありますが、飯能戦争は5/23で、平九郎さんが自害したのも同日5/23です。
一泊したのであれば、5/24に亡くなった事になりますよね。
他でも一泊した説を見たことがありますが、変装するために立ち寄った家の存在は確かにあれど、一泊するほど平九郎さんは悠長に逃げていなかったと私は思います。
疲れ果てて、峠の茶屋から家までの最短ルートを降りて行ったのではないかと。
江戸の家を出る際も、死ぬ覚悟を決めていたようですし、危険な目に遭うのは運に任せていたといいますか。
いずれにしても、平九郎さんの最期について読む時、いつも胸が苦しくなります。
今はただ、安らかな気持ちでいてくれる事を祈っています。
平九郎と平五郎はまったくの別人よ
そうですか。
新五郎でも平九郎でもなく、平五郎という存在は初耳だったものですから 汗
平九郎さん達と、どのような関係性だったのか教えていただけると嬉しいです。