山岡鉄舟と天覧山【飯能戦争⑱】
長々と綴ってまいりました飯能戦争もいよいよ最終回!!
ここまで読んでくれた方がどれだけいたかは存じませんが、これを機に飯能の戦跡を歩いてみようという歴史ファンも少しは増えたのではないかなあと思います。
そんな方に先ず見ていただきたいのが、能仁寺の正面にあるこの看板!
山峡に歴史を訪ねるコース
官軍の主力部隊である、大村、佐土原、備前の三藩は、いずれも自分達の隊が「イチバン」に能仁寺に攻め入ったと主張をしてはばかりません。
つまりこの場所は、官軍が鬨の声をあげ、雨のように銃弾を浴びせかけながら、競うようになだれ込んだ飯能戦争の激戦区!
広い駐車場はあるしトイレもある。飯能戦争の戦跡巡りは、この案内板からのスタートが定番中の定番なんですね~♪
って、フツー思うでしょ?
アップで見てみましょう。
戦争の「せ」の字もないですね。
結論から言います。埼玉県内で行われた唯一の戊辰騒乱「飯能戦争」には、はっきりとした理由は分からないのですが
隠ぺいされた
形跡があります。
という訳で飯能戦争の最終回は、なぜ飯能市は、いや埼玉県は、この戦争を隠さなければならなかったのか。この謎について考えたいと思います。
今回も長くなってしまう予感がしますが山岡鉄舟と天覧山の関係を書かずして飯能から離れる訳にはいきません! どうぞ最後の最後までお付き合い下さいませっ
第13話「それぞれの開戦前夜」より一部を引用しますね。
飯能にとって喜作たち振武軍の来訪は迷惑なものでした。
ところが伝わっている風説を見ると必ずしもそうとはいえない状況も見えてくるんですね。
飯能が喜作たちに好意的だった理由は、ひとつは飯能は一橋領であったこと。もうひとつは、まさか徳川の時代が終わるなどゆめゆめ思っていなかったこと。
飯能が旧幕府軍の味方をした、と言い切ることは出来ないのですが、飯能を攻めた官軍が飯能をどう見ていたかというと
一橋領。
飯能は江戸幕府のボスである徳川慶喜の支城の一つと認識され、民家、寺社ともに容赦なく焼き払われてしまいました。
そして官軍、すなわち新しい政府に抵抗をしたというレッテルは、戦後復興を阻害する足かせにもなってしまったのでしょう。埼玉県にとって飯能戦争は、忘れ去りたい「汚点」として記憶された可能性があるような気がします。
実際、飯能戦争を記録したものが活字となって世に出るのは最も古いものでも大正4年を待たなければなりません。テレビ中継があった訳じゃなし、50年もふたをされてしまっては歴史から消えてしまうのも無理はないと言うものですよね。
飯能を象徴する山「天覧山」も飯能戦争の重要な戦跡の一つです。
戦争の始まったあの日の朝、ある振武軍隊士は山頂に建てられたやぐらに登り町の様子を伺おうとしました。が、降り続いた雨がちょうど上がったタイミングだったんですね。視界は霧で埋め尽くされ何も見えなかったと記録にはあります。
この天覧山にも、現代には伝えられていない、埼玉県史にも飯能市史にもwikiにも記載がない「隠ぺいされたであろう」エピソードがありました。
それは西南戦争が終わって間もなくの頃でした。天皇陛下(明治天皇)の御前で行われる陸軍大演習のことについて宮中で近臣会議が開かれたときのことです。
小倉の原がまことに適地である
真っ先に口を開いたのは時の右大臣、岩倉具視でした。
しかしすかさず山岡鉄舟がこう被せます。
私は武州飯能「羅漢山」が最適地であると考えます
山岡の胸には
飯能は江戸の代わりに燃えた
という思いがありました。
西郷の決断により江戸総攻撃は回避されましたが、喜作ら旧幕府軍の立て込もった飯能は「焼き討ち」に等しい悲惨な結末を向かえています。
もし陸軍大演習の開催地が飯能に決まれば、人口2000人の飯能に、天皇陛下を含め町民と同数である2000名の宿泊施設を用意しなければなりません。
山岡には大演習のために割かれる膨大な予算が「飯能復興」の一助になるという強い信念があったのでしょう
武州飯能? 無いわー
飯能案を一蹴されたことで激昂! 右大臣岩倉具視に向かって
馬鹿者が!!
居丈高に声を荒げてしまいましたwww
山岡の本気の一喝なんて想像するだけでおしっこちびっちゃいますけどね、そこは岩倉具視、烈火の如く怒り狂い、具体的なやり取りの記録はないのですが、この後の明治天皇のお言葉から察するに、普段から「バカ」と言うタイプの人だったのでしょう
益々議論は、というか罵り合いはヒートアップ!
そしてついに
両人控えよ、この争いは朕が預かる
明治天皇みずからがが仰られ、山岡も岩倉も恐縮して控えることになりました。
が、岩倉は収まりません
陛下に言上致します。山岡は右大臣に向かいバカと罵りました。この処置はいかが御計ひ下さりますかっ
この訴えを聞いた明治天皇
陛下笑みをふくみたまひて
とあるのでニヤニヤしながらだったのでしょうねwww
岩倉はバカと言うからバカと言われるのじゃ。今後はバカと言うなよ、と仰られ、次に群臣に向かい
演習場をどこにするかは朕が決める。
と仰り給い玉座をお立ちになりました。
明治16年4月18日、明治天皇は自ら羅漢山を陸軍大演習の御野立てに選ばれ御登臨され、後に日清・日露を戦う近衛諸兵の汗みどろの対抗演習を親閲されます。
そして羅漢山は天皇陛下が大演習をご覧になった山ということでこの日より名を
天覧山と改め
飯能を象徴する山として、今日(こんにち)に至ることになりました。
以上が天覧山に秘められた知られざるエピソードなのですが、いかがだったでしょうか。もしかしたらここまで読んでくれたほぼ全ての方が「初耳」だったのではないでしょうか。
それもそのはず、今回、飯能戦争をテーマにブログを書くに当たり、多くの自治体史、それに準ずるものを手にしてきたつもりなのですが、山岡と岩倉のエピソードについてしっかり触れているものには、メモのような資料を除くと「一冊」しか出会えていません。
天覧山の入り口と中腹にも天覧山の由来を示す案内板が建てられているのですが「天皇陛下が演習をご覧になられたから天覧山」という記述があるのみで、山岡が飯能復興を願い戦ってくれたこと、喜作たちがやぐらを建てていたこと、平九郎を初め多くの旧幕府兵がそれぞれの思いを胸に敗走していったことなどについては微塵も触れられていませんでした。
この戦争はなぜ隠されたのか。
この問いについては、以上のことなどから想像する他ありませんが、確かに時勢を考慮するとバカバカバカ
明治天皇が時の右大臣 岩倉具視に向かってバカバカバカ、バカを三連発で仰ったなんて記録としては残せなかったかもしれませんよねwww
それでは最後に、多くの人が訪れるであろう「能仁寺の碑文」を紹介して飯能を後にしたいと思います。
ここまでの文脈からは少し離れてしまいますが、最後はこの碑文でキレイに終わろうとずっと前から決めていましたので。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
そもそも、彰義隊、振武軍両隊のとった行動は、結果として時勢を見誤った様にも見えてしまうが、彼らはもともと、何かに反抗したり、私欲を満たすためではなく、みな血気盛んな若者だったので、ただ自分の仕える主君に対する忠義をひたすらに貫こうとしただけであった。
飯能戦争、おわり
毎回とても楽しく拝見させていただいておりました。
はじめて知ったことも多く、すてきな絵とも
あいまって、すごく勉強になりました。
ぜひ今後とも埼玉のことを取り上げていってください!
(書き手様の労力も考えない、勝手なコメントすみませんです)
ステキなコメントありがとうございまっす! 例えアクセスがなかろうとも100話までは文句を言わず書く所存ですので今後ともよろしくお願いします
「山岡と岩倉のエピソードについてしっかり触れているものには、メモのような資料を除くと「一冊」しか出会えていません。」とあり、「また馬鹿者が!!
居丈高に声を荒げてしまいましたww」
の下に本の頁の一部が掲載されていますが、差し支えなければこの本のタイトルをご教授いただけませんか。
「飯能の明治百年」の記述と同じようですが、この本とは違うようなので、教えていただければと思っています。この山岡と岩倉のやりとりの出典元を確かめたいと思っていましたので、お忙しいことろ恐縮です。
天覧山の由来という10ページほどの本とは言えないようなものでした。昭和20年代に発行されたものだったかな、酷く痛みがありましたね
いつも素晴らしい絵とふんだんな秘話を盛り込んでいただき楽しく読ませていただいています。先週も飯能の図書館に行っていたのですが、再び訪ね探してみます。
いつも素晴らしい絵とふんだんな秘話を盛り込んでいただき楽しく読んでいます。先週も飯能の図書館に行っていたのですが、再び訪ねご教示いただいた資料を探してみます。
棚にはないので係の人に尋ねてくださいね。奥から出してくれると思います
飯能戦争、メッチャ面白かったです。
イラストもとってもステキです。
扇谷上杉氏・深谷上杉氏ネタもよろしくお願いしまーす!