指差す先に見えたもの【小手指/入間市】
どもこんにちはゴケゴーちゃんです
早速ですが今回は、所沢市の難読地名「小手指」の由来について考えてみたいと思います!
え、タイトルが入間市になってんぞって?
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んなこた分かってますよ。いろいろ検討した結果、入間市東町付近が小手指の起点なのではないかということになったので小手指・入間市にしたんですよ
それでは! 近隣にお住まいの方にしかご理解いただけないかもしれませんが
小手指の地名の由来
どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
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埼玉県の地名に関する書籍は目にすればだいたい手に取り、パラ見くらいはしてきました
そこで感じるのは、やはり地名はその地域の記憶そのもの、土地勘のある地元民がやらなければいけないのかなあということでした。どんなにエライ学者先生であっても他県民の書いたものからはなんと言うか
愛が感じられない?
郷土愛の無さ日本一の埼玉県民が言うなって話ですけどねwww
特に最近読んだこちらの一冊の小手指の項は気になりました。引用しますね
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コデは地名の語源(角川書店)では筆頭に山畑を挙げており、その解釈がいちばん妥当な線だろう。指はその辺一帯を指した程度の意味と考えていいのではないか
地元民として、これは少し寂しい解説だなあと感じました
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全体的には硬派でとても良い一冊だったと思います。近い内に取り上げたいと考えている熊谷の地名についてもこちらの一冊から多くのヒントをいただきました。しかしこちらの先生、北野の天神様にも立ち寄っているんですね
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こてまる君には気が付かなかったんですかねえwww
こてまる君とは、天神様である菅原道真の烏帽子をかぶり、小手指ケ原の合戦で勝利した新田義貞の家紋を身にまとい、小手をかざすポーズを決める。 あらゆる小手指が詰まっている小手指限定のゆるキャラです
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をかざす、コテについてはこてまる君の解釈を全面的に支持したいと思います
では、どの場所で小手をかざしたのか
そのポイントが入間市東町から藤沢にかけてではないかと考えました
入間市東町は、不老川の削った標高にして約100メートルの河岸段丘上にあります
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そして小手指と入間市東町は鎌倉街道で繋がっています。1333年5月、鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた新田義貞も
この道はうまさかと呼ばれ鎌倉へ通じる古街道で鎌倉攻めの武者も通ったといわれている
この道を通り進撃しました
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鎌倉幕府討幕軍の見た景色はどんなものだったのか
住宅の間からじゃよく分かんないですね
なので全国金子姓発祥の地、入間市木蓮寺の瑞泉院跡まで下がってみました
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東町は武蔵野台地、瑞泉院跡は加治丘陵。標高差が50メートルあるので同じでありませんが、見えた景色はどちらも似たようなもの
正面に狭山丘陵があるだけの、なーーーーんにも無いススキっ原でした
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このなーーーんにも無いススキっ原のことを
武蔵野面
と言います。武蔵野台地という大きな台地の中にある一つの面ということですね
埼玉県には何もない、と言われれば「いろいろあるもん」言い返したい私ですが、武蔵野面の上には残念ながら割とマジで
なーーーんにもありませんでした
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武蔵村山市立歴史民俗資料館の入り口を入ったところに衝撃的な案内板があります。資料館のものなので写真はアップしませんが
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資料館博物館の展示というのはどこもだいたい旧石器時代縄文時代弥生時代、時系列ですよね、なのに武蔵村山の資料館は、古墳時代の次がいきなり江戸時代
奈良平安鎌倉室町戦国のだいたい800年をすっ飛ばしてんですよ
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人がいなかったということはないと思うのですが、案内板の示す通り、武蔵野面には人の気配の感じられない時代がありました
主な理由は水です(詳しくは武蔵野台地の回をご参照ください)
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関東ロームは火山灰由来なので水を貯めることが出来ません。その下の砂利、礫層と言いますが、礫層も小なので水を貯められません
つまり、武蔵野面は、田んぼは作れない、井戸を掘るのもめちゃ大変、火山灰由来なので栄養価も少なく樹木も育ちにくい
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モーレツに人の住みにくい場所でした
そのなーーーんにも無いススキっ原を、旅人は入間市東町の丘の上から見た訳ですね
そりゃ手もかざしたくもなるってもんですよねwww
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おい、丘の向こうに何か見えねえか?
おっと、旅人が、狭山丘陵を指さして「何か見えねえか」言いましたよ
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武蔵野面にはこれと言った建造物はありません。柳瀬川沿いに船着き場と、狭山丘陵付近に行き倒れの旅人を救済するための、飲料水の確保が出来ないので深刻なレベルで旅人が倒れたんでしょうね、悲田処(ひでんしょ)が置かれたという伝承はありますが、あったとしてもどちらも掘っ立て小屋に毛のはえたくらいの規模だったと思います
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山の向こう、何か光ってんぞ
標高100メートルの入間市東町から見ています
狭山丘陵の東の端は八国山。標高は約90メートル
その向こうに見えるもの…
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新田義貞が燃やしてしまった武蔵国分寺
七重の塔
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が見えたかどうかは、私の想像です
ただ八国山からは確実に見えました
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武蔵国分寺七重の塔は、標高64メートルの場所に、相輪込で60メートル、計124メートルの高さで建てられていたと考えられていますので、国分寺崖線が80メートルを下回ることを考えると塔の半分から上は余裕で見えていました
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ちなみに武蔵国分寺のある面を立川面と言います。武蔵野面にはなにもありませんでしたが、立川面は国分寺崖線、ハケからの湧き水が豊富にありましたので国分尼寺や武蔵国府などいろいろなものが作られました、羨ましいです。野川も太古の多摩川、古多摩川ですね
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とはいえ八国山から七重の塔を指さすと、東村山久米川方面が「小手指」になり所沢市小手指が成立しません
新田義貞が分倍河原からの退却路として使った東山道武蔵道から堀兼道(鎌倉街道は近いうち詳しくやります)にかけてのどこか、からならどうかとも考えましたが、そうすると今度は標高が八国山よりもずっと低く足りません
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そこで標高100メートルの入間市東町なのですが
え、八国山の標高が90でも樹木が成長すれば視界の壁は110~120くらいになるだんべって?
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いえ樹木は毎日の煮炊きをするのに必要な燃料です、冬は暖を取るためにも使います。現代のように伸ばしっぱなしにするはずがありません。武蔵道も通っていましたし「はげ山」だった可能性もなくは無いと思います。仮に樹木が伸びていたとしても
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塔の先端は標高124m、こんな風に見えてても不思議はないですよね? 今より空気も澄んでますしね
実際かつての小手指は、今の入間市藤沢から狭山市入曽の手前あたりまでを差して言っていたのだそうです。まさに入間市東町の丘の上から見渡せる範囲です
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日が暮れ新田義貞はここ小手指ヶ原古戦場より狭山市入間川まで退却しました(狭山市駅の辺りですね)私はこの史実を、距離がありすぎるのではないかと感じていたのですが、小手指の範囲は今よりもぜんぜん広かった、例えば藤沢あたりから狭山市入間川への退却であれば違和感もさほどないのかもしれません
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入間市東町の丘の上で小手をかざし、何もない武蔵野面のだだっ広さに驚いた、そして狭山丘陵の向こうに光って見える武蔵国分寺七重塔の相輪の先端を指さした、で、小手指
私はそんな風に考えてんですけど、いかがなものでしょうか
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