川越藩士 下山忠行16歳【飯能戦争⑫】
早速ですが今回は、太鼓係として飯能戦争に参加した川越藩士 下山忠行くん16歳の手記を見ていきたいと思います!
喜作の残した言葉は「ウソ」とは言わないまでも、盛ってるよね? というところもチラホラあると思うのですが、初陣の下山くんは喜作と比べて純真だったんですねえwww 進軍の様子を少しも飾ることなく、まるでその光景が目に浮かぶかのごとく書き残してくれました。故にお目にかけない訳にはまいりません。
特に「 坂戸にはなにもない」などという自虐的なポスターを作成している坂戸市の皆さま! そのポスターを剥がす時がいよいよキターーー、ではなく、登場する地名が局地的すぎて坂戸近辺の方にしかご理解いただけないと思いますので、どうぞ最後までお付き合いくださいませっ
慶応4年の五月のことだったが、上野に立てこもった彰義隊の残党が飯能の能仁寺に立てこもり、討手として川越藩も兵を出すことになった。官軍の命令だ
オレは平沼さんの隊に従って、川越宮下町の学問所に一泊、未明に川越を出発した
その日はひどい雨降りだったが、やはり出陣だから、なかなか意気が盛んで、勇壮といおうか悲壮といおうか、とにかく豪勢なものだった
オレは友人の小原くんと
ジャンジャン、ジャカジャカ、ジャンジャカジャカ
フランス式にドラムを叩いた
しかし、他の部隊はまるっきり昔風の甲州軍学の山県流で、ほら貝と鐘と太鼓で
ゴブンゴブンゴブン、ドンドンドン、ジャンジャンジャン
三拍子だ。服装にしても、オレらは和洋折衷というか、つつ袖にダン袋。あちらは韮山傘に陣笠にぶっさき羽織。武器も、槍もあれば鉄砲もある。具足を付けたヤツもいる。今から思うと笑ってしまうよ
一緒にいた官軍は九州の柳川藩で、つつ袖にダン袋はオレらと同じだが、ミニエー銃をかついで、縄の鉢巻きをしている。勇壮といおうか野蛮といおうか、もの凄い姿だ
その上この一隊が川越に乗り込むと、すぐに罪人を引っ張り出して、北町の光西寺の門前で斬り捨てたので、川越中の人が、みな震え上がった
雨は一向に止まない。道はぬかるみで歩くのも容易じゃない。小坂と広谷の間は川が溢れて、腰まで濡れる場所が七、八町もあった。小坂と平塚の間が特にひどかった
それに鹿山地方は旗本領が多かったから、公方様(慶喜)の肩を持たない者はいない。道は悪いし、まわりは穏やかではない。おまけに距離もある。へとへとに疲れた
とにかく戦争というのだから、髪を切って家に残してきた人もいる。水盃をかわして、生還を期待せずと覚悟した人もいる。いずれにしても大変な進撃だった
明くる日の午前3時頃だった。暗い中で盛んに銃声がする。オレと小原くんは驚いて目を覚ましたところ、隊の者はみな出かけた後だった
大急ぎで追いかけると、砲声がいんいんとして、小銃の音も豆をいるようだ。ようやく鹿山で隊に追いつくと、飯能口には、官軍が畳を積み上げて防塁とし、左右の山に兵を配置して、十分な構えをとっていた
そこからオレらの隊は白子に向かった。高坂の入り口まで、もうちょっとというところでジャカジャカやっていると、左手の山腹から、ドンドンと小銃を撃ってきた。江木隊長が、応戦を止めさせ、全員土手に伏せさせていたところ、そのうちに敵は散らばってしまった
岸徳右衛門という人は弾薬係だったが、遅れてしまったので大急ぎで飯能に向かった。弾薬を入れた箱を担いで、ひた走りに走ったところ、別の方面の官軍が、それを飯能の賊軍と見てとったらしく、さんざんに小銃を撃ちかけてきた。驚いて、一目散に畑だろうと田んぼだろうと走って、ほうほうの体で白子にたどりついた
飯能口の方では、賊軍の夜討ちがあった。あわてた味方の同士討ちも出て、いずれも泥だらけ。夜が明けた時は、みなずぶ濡れだった
とにかくオレらは疲れ切って、道に麦わらを枕に、ごろごろ寝てしまった。分捕り品がいろいろあったが、その晩に1000本入りのローソク一箱を盗まれてしまった
三宅という人は、草やぶに隠れて敵を待っていたところ、少し先にやってきた。銃の引き金を引いたが弾が出ない。敵はどんどん行ってしまった。あとで見たら撃鉄が挙げてなかった
酷かったのは官軍の兵が旗本の用人を鹿山で斬ったことだ。60歳くらいの老人だったが、手を斬り鼻をけずり、目も当てられないような殺しようだった
オレの隊の一人に山田という人がいた。白子の先で、百姓家から抜け出し茶畑に隠れた男を、棒で殴ってしまった
後日、そのお百姓の奥さんが川越中原町の山田の家に野菜を売りに来て「うちの人を殺したのは、ここの旦那だ」といったという。本当に寝覚めの悪い話だ
結局、この飯能の賊は、頼りにしていた能仁寺が、兵火に焼け落ちたので敗走した。
もう一つ、能仁寺の焼き討ちを買って出る川越藩兵のエピソードが記されているのですが、ここは戦争の行方を決定づける重要な、かつドラマチックな場面でもあるので、ちょーっち温存させていただきますね。
以上が、川越藩士、下山忠行くん16歳の書き残してくれた飯能戦争従軍記です。
ドラマのような、勇ましくてかっこよくて、涙のぽろぽろこぼれてしまう戦争はここにはありませんでしたが、泥だらけでへとへとな彼らの姿こそがリアルなんでしょうね。時代の変わり目だったことや、実戦に慣れていなかったこと。事実だけを書き残し、自分の想いをほとんど残さなかったところからも、伝わってくるものがあるような気がします。
またタイミングもめっちゃ悪かったですよね。
彼らを苦しめた「平塚ー小坂」とは、川越、川島、坂戸の方は
ああ、あそこか(ポン)
膝を打ったと思いますが、台風19号で大きな被害を被った、まさにあの場所です。
国道254号線の「落合橋」とは
川の落ち合うところ
という意味ですから土地が低いんですね。土地勘のある川越藩がこのルートを選ぶはずはありませんので、やはりこれも官軍が力関係で押し切ったのだと思います。
それでは! 下山くんも川越藩も立場的に言いにくかったでしょうから、代わりにボクが言っときますね
連日の大雨で
越辺川も小畔川も溢れてる
言ってんのに
落合橋方面に進軍するなんて…
官軍のバーーーカ!!
そもそも君たち「越辺川」読めんの? 越辺川www
ところで、坂戸市のポスターを剥がす時キターーー! みたいなことを言ってたと思うんだけど?
あ、その件ですか。その件なら、彼ら「東坂戸団地」の中を通っていったみたいですよ? 坂戸市史の中に東坂戸団地って思いっきり書いてありましたからw