所沢の動乱・1【飯能戦争⑧】
慶応4年5月17日、早朝5時。
御抱組と彰義隊のケガ人を合わせた「共同隊」が甲府を目指し田無を発っていきました。
遅れて9時。
渋沢喜作率いる振武軍が「飯能」へ向けて出発します。
この時の行程を、ほとんどの資料が「田無を出発、所沢でランチをとり、扇町屋に宿泊。翌18日、飯能へ入る」の一行のみで終わらせてしまうのですが、これだと喜作たちがいつもと変わらぬ所沢をすんなり「素通り」していったように思えますよね?
とんでもないです。
喜作たちの通った頃の所沢は「動乱」のまっただ中にありました。今回は、慶応4年の春から夏にかけての所沢がどんな目にあっていたのか、そこに焦点を当てて見ていきます。少し話は逸れますが、周辺地域の苦悩をスルーして飯能に入る訳にはいきませんからね。
喜作たちが所沢を通ったのは慶応4年の5月でした。けれど少し戻って3月の終わり頃からお話させていただきますね。
勝楽寺村事件
慶応4年3月30日。所沢勝楽寺村城山に、北野、三ケ島、宮寺の博徒(ばくと)、まあヤンキーみたいなものですね、ヤンキーが100名ほど集まり、山口村に、飯の準備をしろ、酒持ってこい、拒否するなら打ちこわして放火するぞと脅しをかけました。
所沢村は早速「農兵」の出動を要請、4月1日に城山を包囲し発砲、ヤンキーどもを鎮圧します。
翌2日、三ケ島村、糀谷村、林村などの名主が所沢村に集まり、この事件をどう代官所に報告するかを協議
そして「奴らも後悔しているので許してやって欲しい、ウチで引き取り改心させる」と三ケ島村が申し出たことで、内々に処理することを決定、事件は一応の決着をみました。
この事件から、どのような背景が見えてくるのか考えますね。
まず一つ、根底にあるのは言うまでもなく「貧困」です。暴力に頼らざる得ない程に追い詰めらた者たちがチームになり、村の治安を脅かしていました。
次に、所沢の農民はヤンキーを鎮圧するために「銃」を使用しました。銃と言ってもイノシシやシカを獲るための火縄銃じゃないですよ。まあ火縄銃もあったかもしれませんが、使用したのは幕府の許可を得て所持している戦闘用のゲベール銃でした。
幕末の関東は「リアル北斗の拳」と言って差し支えのないほどに荒れ果て混乱した状態でした。村々の貧困は極限に達し、博徒と呼ばれるアウトローが勢力を拡大。力の衰えた幕府にそれを抑える力はありませんでした。
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