渋沢喜作と天野八郎【飯能戦争②】
探したぞ、喜作。
喜作のもとにやってきたのは、ときに兄、ときに師、またときには同士でもあった、地元深谷の大先輩「尾高新五郎」でした。

久しぶりの再会に募る話もあったのでしょう。新五郎は、京都へ向かったこと、喜作が江戸へ戻ったことを知りUターンしてきたこと、鳥羽伏見で何があったのか真実を知りたい、などなどを矢継ぎ早にまくし立ててきました、が! 喜作が気になったのは新五郎の長い話などではなく、彼の持つ一通の「お手紙」の方でした。

キミたちの知り合いに即戦力になりそうな人材はおらぬか
それなら地元の先輩に尾高新五郎という者がおります。社長のご実家である水戸を心から愛する男ですので、呼べば大喜びで飛んでくると思いますよ。なあ、栄一www
尾高新五郎とやら召し抱える。喜作、すぐに手紙を書けい!

幼少の頃より憧れていた徳川斉昭の息子、徳川慶喜からのお手紙を
新五郎は
土埃舞う
深谷というど田舎で受け取ったんですよ?
ネギ畑の中心で愛を叫ぶ!!
そりゃあ鼻の穴も広がっただろうと思いますねwww

とはいえ手紙を受け取った時と今とでは状況が一変しています。
本社を追われた慶喜は、もはや社長ではありません。しかも薩長は「責任はすべて慶喜にある」と岡山(備前)への引き渡しを要求。もしそうなれば奴らのことです、首を切らずに(物理)済むはずがありません。
社長を引き渡すなんて出来る訳ねえべ
そうだ喜作。今こそ慶喜公に罪のないことを明らかにするのだ
お兄さんのおっしゃる通りだ喜作くん!

あ、はじめましてお兄さん。ボクたちはリーダーには喜作くんがふさわしいとずっと言ってるんですけど本人がなかなか決断してくれなくて困っている天野と、こちらは伴と申すものです
そうですかそうですか。私もね、喜作がこーんな小さなときから、彼には大将の器があるなあと思ってたんですよ。分かりました、私からも言って聞かせましょうっ

慶応4年2月、彰義隊結成
まず第一に目的は戦争ではありません。社長の無実を天下に明らかにすること、この一点にあると思います。もしそれが聞き入れられないときは我々も武士です。人事を天命に任せ、死をもって目的を果たすということにしてはいかがでしょうか
喜作が隊結成の趣旨を述べると、すかさず天野・伴が賛成の意思を表したため、集まった志士たちも意義なくこれに同意をしました。
ここに「義を彰かにする」という意味の彰義隊が結成されます。隊頭取には渋沢喜作、副頭取には天野八郎が選ばれました。

彰義隊結成の噂が広まると、これに参加しようとする者が続々と上野へ集まってきました。ただ、その全てが「慶喜の汚名を晴らしたい」そう考えていた訳では当然ありません。
参加の動機として多かっただろうと思われるのは
薩長ムカつく。
もう一つ言うと
ただ飯食えるらしいぞ。
もういっちょオマケに
人を斬ってみたい。
中にはそんなヤバい連中も多く含まれていたのです。
こうなると喜作の苦労もハンパありません。
喜作は元上司である小栗忠順の携帯を鳴らしました。
が、小栗はすでにこの世の人ではありませんでした。

社長の謹慎先が決まったぞ。水戸だ
鉄太郎だとピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんね。そうです、のちの山岡鉄舟(てっしゅう)です。
彼もまた埼玉には縁の深い、いや、ほぼ埼玉県民、小川町の人ですので、この章(飯能戦争)の最後に改めて取り上げたいと思っておりますが、一言だけ言わせて下さい。この人、控えめに言って
すごくすごいです(語彙力)
そのすごい彼が薩長のボス「西郷隆盛」と直に談判、慶喜を備前(岡山)に引き渡せという要求を、文字通り「命を賭けて」水戸に妥協させてきました。
江戸本社(城)は明け渡す、武器や軍艦も全て引き渡す、社員の待遇や次の配属先、領地については持ち越しとしましたが、とりあえず慶喜の命と徳川家の存続だけは約束されたという訳です。
そして4月11日、江戸無血開城。
同日、慶喜は水戸へと退去していきました。

慶喜の汚名を晴らし忠義を彰かにすること、それが彰義隊結成の主旨でありゴールでした。その慶喜が水戸へ去った今、彰義隊が上野で頑張り続ける理由がどこにあるでしょうか。
喜作は官軍との衝突を避けるためにも「とりあえず20キロほど離れた場所に移動し様子を見るべきではないか、ホントは解散と言いたいけれど(小声)」という提案をしました。
が、天野が猛反発!!
天野の反対理由は喜作の残した言葉のみで説明するとこんな感じです。
官軍は当初徳川には一国か二国のみを与えるつもりだったが、それでは反発も強く出るので関東地方を与えることにした。それはオレたち彰義隊が上野で頑張っているからではないか? だとすれば、我々の力でそうなったと主張をすれば、二百石、いや三百石ぐらいの旗本に取り立てられるかもしれない。江戸から離れるなどもってのほかである
つまり天野には「下心」があったと喜作には見えていた訳ですね。

江戸にこだわったのは天野だけではありません。
彰義隊に参加した旗本や御家人、そして江戸市民にとっても、江戸は家康の入府以来、長きに渡って受け継いできた将軍のお膝元であり「ふるさと」です。
その江戸を戦わずして明け渡すなど、到底容認できるものではありませんでした。
彰義隊が成立したばかりの頃のエピソードです。
もし薩長が慶喜公に死ねと言ってきたらどうしようか
喜作が天野に聞きました。
オレは徳川家の存続を目指すのみだ。それは仕方がない
天野は答えました。
天野や多くの旗本にとって「上様」とはあくまで「将軍」であり、徳川慶喜個人ではありませんでした。
しかし喜作は
京都で慶喜に採用され
京都で慶喜に仕え
京都で慶喜と共に戦いました。
そして元はといえば深谷市生まれの農民です。
オレは慶喜公を迎え日光へ行く。
喜作だけが、江戸でも徳川でもない「慶喜個人」に忠義を感じていたということですね。
かくして、喜作と天野は隊を分かつことになりました。
別れ際二人は、官軍にならないこと、そして降伏しないことを誓い合ったと伝わっています。
