下田半兵衛と御抱組【飯能戦争⑥】
平九郎! どうした! なぜ戻って来た!
ば、伴門五郎、討ち死にっ
伝蔵はよほど気が合うのか伴と常に行動を共にしていました。
伝蔵がもし水戸から戻っているなら、伴と一緒に戦闘に参加していると思われます。
その伴が討ち死にしたと
青ざめた顔で
平九郎は告げました。
喜作は「このまま上野に行ったところで仕方がない」と退却を即断、再び「田無」に陣を置きます。
とはいえ戦争は田無から遠くない上野で勃発しました。彰義隊は半日で壊滅。生き残った隊士が続々と田無に集結しつつあります。
それを追う官軍が押し寄せるのは時間の問題
喜作は、再び西へ下がることを、具体的に言うと「逃げる」必要に迫られました。
白野耕作は幕府の年貢米を保管する蔵の警備を担当していました。彰義隊に参加することはなく、16日の夜明けを待ち浅草を出発、田無へ到着すると
これはヤバい。
敗走兵のあまりの多さに、このままでは田無が残党狩りに巻き込まれてしまうと「心配」しました。
白野について少し触れておきます。
白野は山梨県大月市笹子の人でした。
出身が大月ですから、江戸と大月の行き来をするのに、甲州街道の脇往還である青梅街道は利用したことがあったかもしれません。
もし無かったとしても、白野はロシアのプチャーチンと力強くやりあった岩瀬忠震(いわせただなり)に仕えていましたので、岩瀬が安政3年に小金井の桜堤を見に来た際、一緒に田無にも立ち寄っているはずです。
もし立ち寄ってなかったとしても、その翌年。老中 阿部正弘(あべちゃん)が従者を伴い羽村堤を見学しています。白野の名は具体的には見られませんが、阿部ちゃんに従った「岩瀬伊賀守従者4名」の中の一人は恐らく白野でしょう。
阿部ちゃんが羽村に訪れたときは、田無村の名主 下田半兵衛がその世話を担当しました。
半兵衛の立場は複雑でした。いや、そんなことないですね。半兵衛は田無村とその周辺の村が戦火に飲み込まれないよう、ただただ尽力するだけでした。
半兵衛は上野戦争の勃発する一週間前の5月8日。韮山代官 江川太郎左衛門に…
今、コレを思い浮かべましたよねwww
違います。この時の太郎左衛門は反射炉や日本で初めてパンを焼いたことで有名な36代秀龍ではなく、秀龍の5男、38代秀武ですwww
太郎左衛門という名前は世襲なんですね。それはともかく半兵衛は韮山代官にこんな手紙を出しています。
振武軍を名乗る脱走兵250名ばかりが田無に来ています。小銃・槍等を備えていますが今のところ乱暴することはありません
半兵衛から見れば、喜作たちは同情すべき存在であったかもしれませんが、そこは指名手配中の脱走兵。見過ごせば自分たちに罰が及ぶやもしれません。実際、喜作たちが再び現れた16日には、江戸役所よりこのようなお達しが出ています。
右の者(仁義隊)は大悪人だから、見かけたら捕らえて差し出すように。抵抗するようであれば打ち殺しても仕方ない
こんな連中を農民に捉えろだなんてムチャ言うな、という気もしてしまいますが、幕末のこの頃は本当に治安が悪化していたのでしょう
農民も「銃」が扱えるほどに鍛えられていましたので、半兵衛の立場を考慮するなら、最悪の結末、つまり武力行使も多少はは頭をよぎっていたかもしれません。
そこに現れたのが、表向きは恭順済み。黒(喜作たち)か白(新政府軍)かと問われれば思いっきりグレーな、白野率いる「御抱組」でした。
「心配した」という一語からのイメージのみですが、白野と半兵衛は面識があったような気がします。白野は官軍の急襲を受けるかもしれない田無を心配し、もしそうであれば半兵衛も、無キズの御抱組を心強く感じていたかもしれません。
喜作、ちょっといいか
聞けば、上野の北側に退路があったそうだ。多くの同志は根岸から千住方面に落ちていった。ところが見ろ、軽く1000は超えているだろう。田無に兵が集まった。何故だか分かるか
……。
喜作、おまえがココ(田無)にいるからだ
皆、おまえを頼ってここに来ている。喜作と一緒にもう一度戦いたいと、力を振り絞り田無までやって来ている
戦いは避けたい、おまえのその気持ちはよく分かる。しかし、もう始まってしまった
弱気は見せるな