熊谷はやはりクマ【熊谷市】
早速ですが今回は、熊谷市の、いや、埼玉県を代表する武将と言ってもいいですね
熊谷直実(くまがいなおざね)
のルーツについて見ていきたいと思います!
保元・平治の乱、続く源平合戦において数々の功績を挙げた坂東武者の鑑、熊谷直実のルーツはどこにあるのか
またまた長くなりそうなので結論から言っちゃいますね
熊谷氏のルーツは~
熊(bear)にあると思います
いや、まじめにまじめにwww
熊谷の名の由来はいくつかあり本当のところは分かりません。子孫を名乗る方も、北は青森、南は九州鹿児島にまでいらっしゃって、祖先についての説も一つや二つじゃないはずです。
分からないものをボクがあれこれ考えても仕方がありませんので
熊谷だけにクマwww
いくつかのエピソードを紹介し、その根拠をこじつけていきますので、どうぞ最後までお付き合い下さいませ!
根拠1・新編武蔵風土記稿の記述
新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)とは、江戸時代の終わりの頃に作られた幕府による公式の歴史書です。
この書物の「熊谷郷」のところにこんな記述があります。
地名ノ起ハ古昔當所(このあたり)ノ谷二大熊住テ、人民ヲ悩マセシニヨリ、熊谷次郎直実ガ父、次郎大夫平直定退治セリ、是ヨリ地名ヲ熊谷ト云(正シキコトハ知ラズ)
このあたりに住んでいた熊を、直実のパパである直定(なおさだ)が退治。それ以来地名を熊谷と言う(本当のことは分からん)ということですね。
根拠2・千形神社はもともと血形神社
熊谷直実の住まいのあった熊谷寺(ゆうこくじ)に隣接する千形神社の「千形」はもともと「血形」と書かれていました。直貞の倒した熊の血形がべったりと残っていたことに由来があると聞いています。
根拠3・熊谷氏はどの党にも属していない
埼玉県を本拠に活躍した武士は、大きく分けて3つのグループに分けられます。一つは源氏の一族、源範頼や義経のことですね。
え、義経が埼玉で何の活躍をしたのかって?
あれ、義経の奥さまは川越の子ですよ~
義経の奥さんは静御前だろ。
いえいえ、静御前は側室です。正室は河越重頼のお嬢様でした。 なので義経は川越でもそれなりに活躍をしたと思います、夜なんか特にうっしっし。それはともかく他に近いところでは群馬栃木の新田氏、足利氏。山梨県の武田氏、茨城県の佐竹氏なんかも源氏の一族ですね。
次に坂東八平氏(ばんどうはちへいし)と呼ばれるグループです。桓武平氏(かんむへいし)と呼ばれることもあります。畠山氏や、河越氏、としまえんのハイドロポリスのあたりに城を構えていた豊島氏などがその一族ですね。高家と呼ばれ特別扱いされることもあります。
最後に武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる小さな規模の武士団、というか強い血縁で結ばれた豪農たちですね。
先日ブログにした「児玉党のうちわ」と「小代氏の手紙」は児玉党のお話でした。
武蔵七党については下記に簡単にまとめておきましたのでお時間のある時にご覧下さい。
熊谷直貞の所領となった「熊谷郷」は、武蔵七党の私市党(きさいとう)と横山党、さらに猪俣党の勢力範囲のほぼど真ん中に位置しています。
それなのにこの小さな郷は、どこの党にも属していない。
この不思議も、熊谷氏は「熊退治」によるポッと出の武将だった。それを裏付ける根拠の一つになるのではないかと思います。
根拠4・久下直光の直実に対する扱いがひどい
熊退治をした直貞は原因は分からないのですが若干17歳でこの世を去りました。父に先立たれた直実(二歳)は私市党の久下郷領主、久下直光に預けられ荒川の激流に鍛えられたのでしょう。ご存じのように強くたくましく成長し、平治の乱では義朝が嫡男、源義平に選ばれし16騎の一人として日本史にその名を残しました。
しかし平治の乱に敗れると埼玉県は平家の所領となり、直実は本来ならば久下直光が務めなければならない京都へのお役目を、直光の代理として行かされることになってしまいます。
京都での暮らしは楽ではなかったようです。まず「代理」ということでバカにされましたし、今日食う金もない。京都の水も、きっと直実には合わなかったことでしょう。
そんな悶々としていたある日。直実は鴨川の河原で行われていた相撲大会に飛び入り参加
なんと! 優勝してしまいますwww
そして、それを見ていた平知盛(たいらのとももり)に声をかけられると、そのまま
知盛の家来になってしまいますwww
マンガみたいですけどね、 現実はマンガのようにはいきません。直実にしてみれば悶々としていた日々からの脱却、まあ転職のような感覚だったのかもしれませんが、久下直光の立場から見れば「あのやろう…」ですよね。ということで
久下直光、直実の所領である熊谷郷を略奪!!
後に頼朝の面前で行われる裁判の火種がここに出来ることになりました。
ただ、直光ばかりを責める訳ではありませんが、私市党の直光が、どの党にも属さない熊谷郷領主、熊谷直実を家来扱いして京都へ行かせたこと。直実が熊谷へは帰らない? 決断をしたこと。このあたりから想像出来ることもありますよね。
根拠5・向かい合う二匹の鳩の家紋をもらう
承久4年、頼朝が挙兵をした際、直実は平家の家来でしたので平家の軍、大庭景親(おおばかげちか)に従い石橋山の戦いに参加していました。
頼朝は大庭軍の前に敢えなく大敗。わずかな兵と共に洞窟に身を隠します。
有名な場面ですね。この場面は本題からは少し外れてしまうのですが好きな場面なのでイラスト多めでやらせていただきますね
もし見つかれば頼朝に明日はありません
そこに現れるのは梶原景時。誰よりも手柄にどん欲な男です
その景時が頼朝のいる洞窟へと足を踏み入れます
行ったことはないのですが、さほど奥行きのある洞窟ではないのでしょう。間もなく景時はわずかな兵に守られる源頼朝と遭遇しました
しかし状況はまさに窮鼠ネコ噛。さあ景時、どう動く
見逃せ景時!
見逃せって、外には大庭の兵がめっちゃ居るんだよ! オレが見逃したところで結末は変わらんっ
景ぴーと言ったな。その名、覚えておこう。私からも頼む。なんとか切り抜けてくれ
切り抜けろって何だこの展開!!
平家の時代は終わる、そう悟った景時が頼朝に賭けた、みたいな感じになってますけど、この状況で頼朝を見なかったことにするなんてムリな話ですよね? なので旧知の土肥実平がいたことが、結果、頼朝を見逃すことになったのだと思います。しかし!
ガサガサッ
ん? 何やら人の気配がするのお。どれどれ、念のためわしも見ておこうかの
お待ちなされ! 大庭どの
この「鳩が二匹男」が熊谷直実でしたwww
のちに頼朝は、この日の出来事を思い出し、直実に
鳩が二匹の家紋を与えるwww
普通に考えて、家紋などをホイッと授けたり受け取ったりしますかね? どなたのお家でも家紋というのは先祖代々受け継がれてきているものですよね?
頼朝は何かというと名字を授けたりはしますけども、直実に限っては家紋
これは頼朝が熊谷直実の生い立ちを知っていたからだと思うんですね。直実の父は名も無い男だったが「熊退治」で所領を得て今に至っている。家紋などないはずだから自分が直々に授けてやろう、そう考えたのではないかと思います。
根拠6・熊退治をしてくれる人募集! の高札
以下、熊谷伝記よりの引用となります
当所に猛き熊有て万民を悩ます。是を退治せば此地に三百丁を宛行、永く私の頭族頭と為す者也
この地にどう猛な熊がいて、私市党の面々が数日狩りをしたが討ち取ることが出来ず、やむなく上記の高札を立てた。ということが「熊谷伝記 第一冊」という書物に記されています。
これはもう十分「熊退治」の決定打になると思うのですが、熊谷伝記の信頼性がイマイチなのでしょうか。熊退治は数ある説の中のお笑い担当みたいになってますよね? 新編武蔵風土記稿の「本当のところは分からんけど」が重くのしかかっているんですかね?
それでも熊退治説を採用することで、いろいろ腹落ちすることが出来ました。
高札を立てたのは私市党だけれども、あっさり熊谷の地を取られてしまった久下直光はやはりおもしろくない。
だから直実を「武士の子」として育てなかった。もちろん愛情も注がなかった。そのことが直実の人格形成に影響し、後々の、見方によっては、粗暴で、単純で、視野の狭い、直実の数々のエピソードへと繋がっていった。
「四十八巻伝」という書物に登場する直実からは、一途といえばそうですけど、ちょっとお友達にはなりたくないタイプなのかなあという印象を受けてしまいます。いや、控えめに言っても直実はかなりヤベー奴ですよ。
始まりは熊退治。本当のところは分かりませんが、他の御家人とは素行のまるで違う恐ろしく稀有な一生を送ってますよね、この人は。