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飯能、燃ゆる【飯能戦争⑮】
大村・佐土原・備前の各藩が
砲弾を雨のごとく
小銃を雷のごとく
浴びせながら飯能へ攻め入ったのは朝の6時頃でした。
筑前・筑後は双柳を突破し、川越藩は、振武軍の退路を断つべく白子(武蔵横手駅方面)へと回ります。また名栗川の対岸に因州勢とあるので鳥取藩ですね。鳥取が矢颪(やおろし)に大砲の設置を完了しました。
ただ、詳細については不明な点も多く、官軍の残した報告書もどの藩のものを見ても「ざっくりすぎる」ところがあるなあと感じますので、これまたあまりあてにはならないのですが
渋沢喜作
彼の言葉を引用し、戦いの経過を追っていきたいと思います。
戦いは23日の未明から始まった。お互い正々堂々と陣を張り、銃撃戦となり、簡単に勝負は付かなかった。
オレも隊長として、弾をものともせず兵士を指揮した。
新五郎も参謀長であるから、敵味方の形勢を見て進退の命令を伝えた。兵士も必死で戦った。官軍もかなり手こずった様子だった。
そのうち官軍は「破裂弾」の発射を始めた。
それにも屈せず防戦したが、ちょうど11時頃だったと思う。二発の砲弾が能仁寺の屋根に落ちたかと思うと、たちまちもの凄い勢いで燃え出した。
田舎寺ではあるがかなりの大寺。それが一面の火となって背後から燃えかかる。今がチャンスと官軍はときの声をあげ攻め寄せる。
5時間余りだった。交代する兵もなく、苦戦したオレたちは、この時すでに死傷者も多く、かつ疲労も甚だしかった。その上、小銃大砲と猛火とに前後から責めたてられたので、仕方なく陣地を捨てて残念ながらついに退却することとなった。
笹井河原の戦い【飯能戦争⑭】
野田笹井方面へ進んだ平九郎の一隊は、偵察の報告を受け、100名の兵をいくつかの部隊に編成し直しました。
平九郎の率いる主力部隊の80名は、入間市野田のどこかで入間川を渡り、髙倉山のふもとに身を潜めます。
残りの20名は旧道を直進、笹井方面に向かうと、その内の10名が後の事案から見て黒須付近に潜伏したと思われます。
たった10名で何が出来るのか、ちょっとナゾですよね?
このナゾについては別の隊の高岡槍太郎くん(19歳)が日記にヒントを残してくれましたので一文だけをご覧いただきますね。
夜討ちに赴くくらい故、小銃の弾薬も十分に蓄えなし(戊辰日誌)
夜中に切り込むくらいしかねえんだよ、ということですね。正面からぶつかっても勝負にならないということはすでに彰義隊が実証済みですし、そもそも銃も全員に行き渡るほどの数はありません。窮鼠猫を噛むではありませんが、最後に一発喰らわせて潔く(逃げる)。
ゲリラ的な戦術以外に打つ手は無いということが日記の一文から伺い知ることが出来ますよね。
しかしこの戦いにおいても官軍が一枚も二枚も上手でした。
平九郎は官軍の先陣500名が居るとの報告があった高倉山へ前進、敵の陣地をはるかに見上げます。が、早々に引き上げたのか官軍の気配がありません。
しかし午前2時頃だったと思います。敵がいないのはやはりおかしいと、平九郎は高倉の様子を伺うために入間川の流れに沿って笹井の河原に入ります。
平九郎たちを高倉へ向かわせたのは実は佐土原藩の作戦でした。
佐土原藩は高倉に陣を張っていることを振武軍の偵察に見せた上で兵を引き、入間川を渡った対岸の堤防に100名の銃隊を配置しました。
佐土原藩の報告書に、一番砲隊と銃隊は、他の藩に先んじて進軍を開始、入間川を渡って300メートルほど進んだところで図らずも兵に遭遇したとあるので、佐土原藩は平九郎の隊を「挟み撃ち」にするつもりだったのかもしれません。予定は少し狂ったようですが、平九郎はまんまと佐土原藩の罠にかかったという訳です。
戦闘の火蓋を切ったのは振武軍の方でした。
敵も味方も分からぬくらいの暗闇の中、先ずは気配に気が付いた振武軍兵士が小銃を放ちます。
その銃声を合図に伏せていた銃隊100名が立ち上がり大小砲を打ちかけた、とあるのでコイツですね
…
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それぞれの開戦前夜【飯能戦争⑬】
渋沢喜作率いる振武軍 VS 新政府軍
という構図でここまで来ましたので、ややもすると埼玉県全体が官軍に抵抗していた、そう受け取る方もいるのかなと思うのですが、喜作たちのケースはむしろ稀で、多くの志士は尊王攘夷。幕府を倒すために薩長と手を結び、喜作たちとは敵対する関係にありました。
毛呂山町の権田直助も倒幕に身を捧げた志士の一人でした。西郷隆盛と繋がりのあった権田は、この時、薩摩藩邸屯集隊の副総裁「落合源一郎直亮」を自宅に置き飯能の動きを注視しています。
というわけで今回は、落合源一郎直亮の見た飯能戦争「前日」の様子と、関係者各位の動向。そして、ついに出陣の瞬間(とき)を迎えた尾高平九郎の勇姿を、飯能市民の残した一枚のメモから想像してみたいと思います。
5月22日 朝8時、流賊の先手勢が五月雨がしのぎがたいほど降るというのに、40人余りが鉄砲を背負い、隊伍も整わず毛呂を通行した
鉄砲は剣付き銃ではなく、短いものもあれば長いものもあり、全てが不ぞろいである
続いて200人余りが通行したが、韮山流の陣笠に蓑を着たり、合羽を着た者もいる。裸馬を一匹引いていた。またカゴも三台通ったが、一台には病人が乗っていた。全て300人足らずの人数と見えた。
これが落合の残した手記の書き出しです。大雨の中を行く、たぶん上野で戦った彰義隊たちなのでしょう。彰義隊を先頭に進軍する旗本隊の姿を、まるで足音が聞こえきそうなくらいに克明に書き残してくれました。
この隊は白野率いる御抱組を中心とした共同隊でした。共同隊は飯能戦争の始まる前日の22日朝5時に飯能を出発し、清流峠(日高市)を超え、大谷木村(毛呂山町)の民家で休憩。越生に到着すると、JR越生駅前の法恩寺に一泊します。
白野が飯能? 白野は甲府へ向かったはずだよね?
確かに白野は「戦う気はない」と甲府を目指し田無を出発しています。
しかし、戦う気はないとは言っても大村益次郎から見れば振武軍も共同隊も同じ賊ども。共同隊も討伐のターゲットとして、大村藩など官軍主力部隊の追撃を受けることになりました。
進路変更はこの追撃から逃れるためのものだったのでしょう、白野は甲府行きを諦め、青梅から元川越藩のある「前橋」を目指し進路を北に取ります。その道中にあった村こそが、なんという運命のイタズラなのか
飯能でした。
さあて、気になるのは飯能で再会した白野と喜作がどんなやりとりをしたかですよね?
…
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新政府軍、飯能へ【飯能戦争⑪】
慶応4年5月18日。
飯能に到着した振武軍は村役人を呼び、宿舎をすべて寺にすること、僧侶、村民が飯能の外へ出ることを禁止する旨を申し伝えると共に、飯能の各出入り口を封鎖、戦争が間も無く始まるという緊迫感をいよいよ具体的なものに変えようとしていました。
大村益次郎は20日、備前藩を川越へ、大村藩、佐土原藩、筑前藩、筑後藩を青梅に向けて出張させます。出張の目的は言うまでもありませんが、彰義隊の残党と振武軍の討伐。筑前藩の残した手記の言葉を借りるなら
賊どもの皆殺し!!
という訳で今回は、喜作たちを「皆殺し」にするために飯能へ向かった新政府軍各藩の紹介と、それぞれの進軍ルートを見ていきます。
イラストのモデルに「女の子」を起用しましたが、女の子が戦場に赴くことを助長する意図は一切ありませんので、その点をご理解いただき、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。
岡山県からお越しの備前藩のみなさんです。遠いところお疲れ様でした、ようこそ埼玉へ!
備前藩は「戸田の渡し」に配置されていた別動隊50名を吸収、ららぽーと富士見付近で彰義隊の残党4名を斬首 9名を射殺し川越に入ると、賊どもが扇町屋ではなく飯能に集まっていることを知らされ川越藩と共に黒須へ向かう、とあるので国道16号の旧道でしょう。今も往来の多い、あの細い道を通って黒須、そして扇町屋に入り大村藩らと合流しました。
隊服にストライプの入った水色のめっちゃ可愛いズボンを着用しておりますが、これは備前藩が特別ハイカラだった訳でもセンスが良かった訳でもなく、たまたま立ち寄ったアメリカ系の古着屋で見つけてまとめて購入した、的なものだったようです。南北戦争の中古品ということなのでたぶんブカブカだったでしょうねwww
大村藩は、備前藩の出発した翌日、佐土原藩、筑前藩、筑後藩と共に青梅へ向けて出発。その日の午後、備前藩と同じく賊どもが青梅ではなく飯能に集結していることを知らされ、翌22日、扇町屋着。川越からの備前藩と合流し、飯能攻めの配置決め等を行いました。
3万石に満たない小藩ながらも相当に鍛えられていたらしく、戊辰戦争の主な戦場には常に彼らの姿がありました。
飯能戦争では、備前、佐土原、筑前などを大村藩隊長の渡辺清左衛門が指揮。
この方は後の福島県知事を務める方でもありますので、この機会に名前だけでも覚えておきたいなと思います。
佐土原藩は先ほどの配置決めにより、入間川を笹井で渡り、野田を通って飯能の正面を突く、飯能攻めの先鋒としての役割を任されました。
笹井河原の戦いでは、一番砲隊が散弾を5~6発放ったとあるので、大砲を専門に扱う部隊が存在したのでしょう、奇襲を狙った平九郎の隊に大きすぎる損害を与えています。
佐土原藩については次の次の次のブログでがっつり取り上げますので今日のところはこれくらいにしておきますね。…
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ゲベール銃とミニエー銃【飯能戦争⑩】
ゲベール銃とモルチール砲でオンテレーレもした…
青天を衝けの第一話。岡部藩の牢に繋がれた高島秋帆(玉木宏)のつぶやいたセリフなのですが、どうでしょう。ほぼすべての方が、意味不明、もしくは聞き取れずにスルーしてしまったのではないでしょうか。
気が付けば「飯能戦争」も第10話。未だ飯能に到着せずボクも困惑し始めているのですが、このセリフの意味が分からないと幕末史の本当の姿は見えてきません! という訳で今回は、飯能戦争で使われた「武器」について見ていきたいと思いますっ
幕末史の有名な場面に、長州の代わりに薩摩が武器を購入、長州に横流しするというものがありました。
多くの読み物はこの場面の登場人物を、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬、中岡慎太郎の4人で書ききってしまうのですが、この4人のみだと武器を「売る側」の人間がいらっしゃいませんよね?
武器の売り手は、時に「死の商人」と呼ばれることもある
グラバーは商人ですから日本に武器を売りたがっていました。特に慶応の初めの頃はアメリカの戦争がちょうど終わったタイミングでしたので中古の武器を大量に在庫していたんですね
Youタチ、トクガワ倒シチャイナヨ
一儲けをするために薩長に思いっきり「戦争」をけしかけたのだと思います。それはともかく、この時グラバーが薩長に売りつけた武器は最新とは言わないまでも、それまでのものとは比べようもない「強力」極まりないものでした。
この頃の銃は高島秋帆が徳丸ヶ原で行ったオンテレーレ、あ、オンテレーレとは「演習」という意味ですね。演習で使用したことにより幕府が正式採用を決めたオランダの軍用銃
でした。
ゲベール銃は本格的な輸入が始まると、1850年代には「今日から撃てるゲベール銃!」的な教本が数多く発行され、1860年代には国産品だけで需要が賄えるほどに普及します。
ところが、1866年の第二次長州征伐。
幕府側の先陣は徳川四天王の一角、彦根の井伊隊でした。
楽勝ムードの井伊隊は、降伏するなら今だぞ? と軍使を二人進めます。が、長州はこの二人を躊躇なく狙撃、打ち沈めると、大砲小銃を浴びせかけるように放ちました。
この時のことを後に長州は
実に憐れむべきの次第
「かわいそうなくらいだった」と回想。井伊側も「具足櫃も置き立てに致したることなれば狼狽察すべし(自慢の甲冑も置いて逃げるくらいに慌てた)」と記しているので「総崩れ」の状態だったのでしょう。井伊の敗退を知った同じく四天王である榊原の軍勢も一緒になって逃げ帰ってしまいました。
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所沢の動乱・2【飯能戦争⑨】
江戸城総攻撃は、西郷隆盛が勝っつあんの説得に折れ「中止」が決定されました。
これを、すでに山岡が話を付けていた、パークスの圧力があった、などなど「美談が過ぎる」という人もありますが、今日のところはそんなこたどうでもいいです。肝心なのは、江戸へ向かう官軍が「埼玉」を通過していった、そして、その通行のために所沢も大きな被害を被ったという現実です。
それでは! 前回に引き続き慶応4年の所沢を見ていきます。盛りだくさんなのでちょーーっち巻きでいきますねっ
鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、早速、幕府軍追討のための軍隊を編成、江戸へは、岩倉具定(ともさだ)率いる東山道の隊と、橋本実梁(さねやね)率いる東海道の隊を派遣しました。
先ずは東山道の隊が「熊谷」に入ります。
東山道隊は
蕨宿に陣取るから兵員輸送を手伝うように
各地に指示。それを受けた所沢は、勝楽寺村、新堀村、山口町谷村、河辺村、他より200人余りの人足を召集、蕨宿へと送り出します。
次に甲州街道を進軍する諏訪藩より
布田宿(調布)までの人馬継立を命じる
という指示があり、所沢村、久米村、北野村、糀谷村、三ケ島村より、やはり多くの所沢市民が布田宿へと向かいます。
続けて、東海道の隊より
村高100石につき金3両と米3俵を課す
この指示については、さすがに負担が大きすぎると談判、半額にまけてもらい納めました。
遅れて、北陸道の部隊も大宮に入り
村高100石につき6人の人足提供を求める
のですが、ごめんなさい、長くなるのでこれくらいにしておきます。
所沢は大変だったんですねwww
違います! ちょっとだけ振り返りますね。
東山道隊は熊谷~蕨。
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所沢の動乱・1【飯能戦争⑧】
慶応4年5月17日、早朝5時。
御抱組と彰義隊のケガ人を合わせた「共同隊」が甲府を目指し田無を発っていきました。
遅れて9時。
渋沢喜作率いる振武軍が「飯能」へ向けて出発します。
この時の行程を、ほとんどの資料が「田無を出発、所沢でランチをとり、扇町屋に宿泊。翌18日、飯能へ入る」の一行のみで終わらせてしまうのですが、これだと喜作たちがいつもと変わらぬ所沢をすんなり「素通り」していったように思えますよね?
とんでもないです。
喜作たちの通った頃の所沢は「動乱」のまっただ中にありました。今回は、慶応4年の春から夏にかけての所沢がどんな目にあっていたのか、そこに焦点を当てて見ていきます。少し話は逸れますが、周辺地域の苦悩をスルーして飯能に入る訳にはいきませんからね。
喜作たちが所沢を通ったのは慶応4年の5月でした。けれど少し戻って3月の終わり頃からお話させていただきますね。
勝楽寺村事件
慶応4年3月30日。所沢勝楽寺村城山に、北野、三ケ島、宮寺の博徒(ばくと)、まあヤンキーみたいなものですね、ヤンキーが100名ほど集まり、山口村に、飯の準備をしろ、酒持ってこい、拒否するなら打ちこわして放火するぞと脅しをかけました。
所沢村は早速「農兵」の出動を要請、4月1日に城山を包囲し発砲、ヤンキーどもを鎮圧します。
翌2日、三ケ島村、糀谷村、林村などの名主が所沢村に集まり、この事件をどう代官所に報告するかを協議
そして「奴らも後悔しているので許してやって欲しい、ウチで引き取り改心させる」と三ケ島村が申し出たことで、内々に処理することを決定、事件は一応の決着をみました。
この事件から、どのような背景が見えてくるのか考えますね。
まず一つ、根底にあるのは言うまでもなく「貧困」です。暴力に頼らざる得ない程に追い詰めらた者たちがチームになり、村の治安を脅かしていました。
次に、所沢の農民はヤンキーを鎮圧するために「銃」を使用しました。銃と言ってもイノシシやシカを獲るための火縄銃じゃないですよ。まあ火縄銃もあったかもしれませんが、使用したのは幕府の許可を得て所持している戦闘用のゲベール銃でした。
幕末の関東は「リアル北斗の拳」と言って差し支えのないほどに荒れ果て混乱した状態でした。村々の貧困は極限に達し、博徒と呼ばれるアウトローが勢力を拡大。力の衰えた幕府にそれを抑える力はありませんでした。
…
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新説・田無会議【飯能戦争⑦】
振武軍隊長、渋沢喜作である
皆にはかけたい言葉もあるのだが、誰もが察しているように今は時間がない。この場で、これからのことを取り決める
先ず、我々振武軍だが、武州飯能へ行こうと考えている。飯能を選んだ理由は、我が隊の参謀、尾高新五郎より説明する
尾高新五郎である。飯能を選んだ理由は二つある。一つは飯能のある武州高麗郡は一橋領であることだ
我々は先日、青梅の御岳(みたけ)を候補地と定め見聞をした。しかし御岳は、山深きこと甚だしく、食料の補給が困難であった
飯能であれば、徳川家再興の為に、主君慶喜公の汚名を晴らすために戦う我々に、宿営地、食料、人足、その他物資の協力を惜しまないであろう。飯能は、長期戦になった場合でも耐えうる場所だと考えている
もう一つは、飯能は背後に広大な「山地」を抱えていることだ。御岳を見聞した理由も同じであるが、もし、官賊どもに押し切られた場合。飯能であれば、山越えに各地に逃れることが可能である。さすれば、再挙をはかり、あくまで主君の…
戦う前から負けることを考えているのか!
何もかも生きていてこそ成し遂げられることなのだ。死ぬが忠義であると考えている奴は今すぐ上野へ戻り薩長のケダモノどもに斬られてくるがいいっ …私からは以上である
オレから言っておく。彼らはすでに恭順済みだ。我々と共に戦うことはない。…改めて、それでよろしいか
ああ
白野様、それではなぜあなた方は田無におられるのですか。我々上野からの部隊の後を追い、ここに行き着いたのではないのですか
オレたちは甲府へ向かっている。貴様らを追ってきた訳ではない
しかし、白野様とて旗本の誇りを捨てた訳ではありますまい。本心は別のところにあるのではないのですか
捨てただと?
まあまて。実は先ほど、オレも白野殿の説得を試みたのだ。我々としても今は一人でも多くの兵が欲しい。まして白野殿の隊は無キズだ。共に飯能へ行って欲しい
が、よくよく考えてくれ。我々は主君慶喜公に「戦うな」と釘をさされている。それでもこうなってしまったのは、それぞれの気持ちが許さなかったから、言うなれば勝手だ。残念ではあるが、白野殿の判断に分があると思う。白野殿、すまぬが傷ついた彰義隊、仁義隊らの隊士を数名でいい、預かってはくれぬか。連れて行ってもとても戦力にはなりそうもないんでな、ハハハ
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下田半兵衛と御抱組【飯能戦争⑥】
平九郎! どうした! なぜ戻って来た!
ば、伴門五郎、討ち死にっ
伝蔵はよほど気が合うのか伴と常に行動を共にしていました。
伝蔵がもし水戸から戻っているなら、伴と一緒に戦闘に参加していると思われます。
その伴が討ち死にしたと
青ざめた顔で
平九郎は告げました。
喜作は「このまま上野に行ったところで仕方がない」と退却を即断、再び「田無」に陣を置きます。
とはいえ戦争は田無から遠くない上野で勃発しました。彰義隊は半日で壊滅。生き残った隊士が続々と田無に集結しつつあります。
それを追う官軍が押し寄せるのは時間の問題
喜作は、再び西へ下がることを、具体的に言うと「逃げる」必要に迫られました。
白野耕作は幕府の年貢米を保管する蔵の警備を担当していました。彰義隊に参加することはなく、16日の夜明けを待ち浅草を出発、田無へ到着すると
これはヤバい。
敗走兵のあまりの多さに、このままでは田無が残党狩りに巻き込まれてしまうと「心配」しました。
白野について少し触れておきます。
白野は山梨県大月市笹子の人でした。
出身が大月ですから、江戸と大月の行き来をするのに、甲州街道の脇往還である青梅街道は利用したことがあったかもしれません。
もし無かったとしても、白野はロシアのプチャーチンと力強くやりあった岩瀬忠震(いわせただなり)に仕えていましたので、岩瀬が安政3年に小金井の桜堤を見に来た際、一緒に田無にも立ち寄っているはずです。…
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