新説・田無会議【飯能戦争⑦】
振武軍隊長、渋沢喜作である
皆にはかけたい言葉もあるのだが、誰もが察しているように今は時間がない。この場で、これからのことを取り決める
先ず、我々振武軍だが、武州飯能へ行こうと考えている。飯能を選んだ理由は、我が隊の参謀、尾高新五郎より説明する
尾高新五郎である。飯能を選んだ理由は二つある。一つは飯能のある武州高麗郡は一橋領であることだ
我々は先日、青梅の御岳(みたけ)を候補地と定め見聞をした。しかし御岳は、山深きこと甚だしく、食料の補給が困難であった
飯能であれば、徳川家再興の為に、主君慶喜公の汚名を晴らすために戦う我々に、宿営地、食料、人足、その他物資の協力を惜しまないであろう。飯能は、長期戦になった場合でも耐えうる場所だと考えている
もう一つは、飯能は背後に広大な「山地」を抱えていることだ。御岳を見聞した理由も同じであるが、もし、官賊どもに押し切られた場合。飯能であれば、山越えに各地に逃れることが可能である。さすれば、再挙をはかり、あくまで主君の…
戦う前から負けることを考えているのか!
何もかも生きていてこそ成し遂げられることなのだ。死ぬが忠義であると考えている奴は今すぐ上野へ戻り薩長のケダモノどもに斬られてくるがいいっ …私からは以上である
オレから言っておく。彼らはすでに恭順済みだ。我々と共に戦うことはない。…改めて、それでよろしいか
ああ
白野様、それではなぜあなた方は田無におられるのですか。我々上野からの部隊の後を追い、ここに行き着いたのではないのですか
オレたちは甲府へ向かっている。貴様らを追ってきた訳ではない
しかし、白野様とて旗本の誇りを捨てた訳ではありますまい。本心は別のところにあるのではないのですか
捨てただと?
まあまて。実は先ほど、オレも白野殿の説得を試みたのだ。我々としても今は一人でも多くの兵が欲しい。まして白野殿の隊は無キズだ。共に飯能へ行って欲しい
が、よくよく考えてくれ。我々は主君慶喜公に「戦うな」と釘をさされている。それでもこうなってしまったのは、それぞれの気持ちが許さなかったから、言うなれば勝手だ。残念ではあるが、白野殿の判断に分があると思う。白野殿、すまぬが傷ついた彰義隊、仁義隊らの隊士を数名でいい、預かってはくれぬか。連れて行ってもとても戦力にはなりそうもないんでな、ハハハ
我々は明朝、夜明けと同時に田無を発つ。キミらに戦うなと言うつもりはないが、戦ったところで勝つ見込みは皆無であろう。であればこそだ。新五郎殿が言われたように、今すぐ飯能へ向かう決断をするべきだ。半兵衛殿!
承知しております。白野様の隊300名が向かう由、すでに小川村に連絡済みです。弁当の準備にも早速取り掛かりましょう。渋沢様の隊、仁義隊、他の皆さまはいかがなさいますか? 飯能へ向かうのなら、青梅街道ではなく、所沢街道を通り、所沢村、次の扇町屋村でご宿営になるでしょう。明朝お発ちになるのでしたら、今すぐ両村に準備をさせますが
新五郎…
迷っている時間はあるまい。半兵衛殿、今回は本当に苦労をかけた。すまなかった。我々も明朝発つ。準備を頼む
はいっ
今さらっと「新説」を採用してみたのですが、あれ?っと思われた方は、たぶん居られないですよね。そもそも田無会議なんていうエピソードはありませんからね。
通説では、喜作たち振武軍は「田無で2隊に分かれ」一方は青梅街道を箱根ヶ崎へ、もう一方は所沢街道を扇町屋へ、で、飯能で合流した、ということになっています。ネット上で、この説以外のパターンに触れることは恐らくないでしょう。
ところが! 自分も最近知ったのですが、白野率いる御抱組300名の存在がありました。瑞穂町郷土資料館で行われた講演会にも(令和3年1月)資料を見た限りですが「御抱組」は登場しています。御抱組は飯能戦争の結果に大きな影響を及ぼさないためスルーされたのかもしれませんが、居ると居ないのではこの日の景色がまるで違ってきますよね。なのでぜひ、その存在だけは知っておいて下さいませ。
新説ついでに、もう一人。重要な人物に「ここ田無で」ご登場いただきます。彼は喜作と一緒に飯能戦争を戦っているのは間違いないのですが、どこで合流したのかが分かっていません。その彼が「田無」で合流したと仮定して物語を進めます。戦争なので面白いとか言っちゃいけないのですが、この人めっちゃ面白いですよwww
じゃまだっ、どけっ
お、おいっ、そいつを取り押さえろっ
喜作うーーーーー!!
(ガタッ)何だ! 外が騒がしいぞっ
オレだ!! 比留間だ!! 喜作う!!
(ガタッ)比留間!? 良八か!? お、おいっ、そいつを通せっ
上野に身を潜めていたのだが、体が冷えてきたんで一先ずクニへ帰ろうと日暮里へ向かったんだ。しかし奴らの残党狩りが厳しくてな、農民に姿を変えてさまよっておった。そうしたら、おまえが田無に居るというではないかっ
体が冷えたって、おまえ、どこに隠れてたんだ
(Ans.不忍池)
そこで、おまえたちが飯能へ行くと聞いた。だとしたら喜作は絶対にオレを必要としているに違いないと確信してな!! 急遽予定を変更して、おまえに会いに来てやったという訳よ!!
これだけでも十分面白いのですが、比留間良八は
もの凄い「剣の使い手」でした。
それってマジなの? という上野戦争でのエピソードがありますので、比留間良八とそのエピソードについて、少しお話させていただきますね。
比留間良八は武州高麗郡梅原村の人でした。梅原村が高麗のどこなのか言いますと、埼玉県西部にお住まいの方は、たぶん行ったことがあるんじゃないですかねえ…
遠足の聖地、日高市のこの辺です!! ボクは遠足だけでなく写生大会でもお伺いしてますねwww
比留間良八はこの地の農家でありながら「甲源一刀流」の名門、比留間の家に生まれ、二十歳で奥義を極めました。
もう一度言いますが高麗郡梅原村の領主はあの一橋慶喜です。
良八は、慶喜が将軍に先駆けて京都に上がった文久2年、知行地(領地)から召集された兵の一人として、水戸の武田耕雲斎や原市之進とともに京都に赴きました。
文久3年、再び京都へ上がると、禁門の変、第一次長州征伐、水戸天狗党事件に従事。慶喜が15代将軍に就任すると、良八は陸軍銃隊指図役に任ぜられ、鳥羽伏見で戦います。
つまり良八は渋沢喜作の同僚でした。
彰義隊が結成されると良八は14番隊の隊長となり、戦争当日は清水門口の守備を指揮。そして不忍池に身を潜め、時を待ち、地元飯能でもう一戦! と、頬かむりに蓑傘(みのかさ)姿で喜作の元に現れました。
比留間良八には
比留間の車斬り
と呼ばれ恐れられた必殺技があったそうです。
車斬りとは、相手の右胴から左肩にかけて斬り上げる独特の殺人剣、と言っても、具体的にどの様な技だったのかはまったく分からないのですが、相対した者はきっと「真っ二つ」にされたのでしょう。
実際、良八の安否を心配し、上野のお山に入った知人たちは
凄惨な光景を見た!!
と、いうことになっているのですが、う~ん
ちょっと盛りすぎな気もしますよねwww