それぞれの開戦前夜【飯能戦争⑬】
渋沢喜作率いる振武軍 VS 新政府軍
という構図でここまで来ましたので、ややもすると埼玉県全体が官軍に抵抗していた、そう受け取る方もいるのかなと思うのですが、喜作たちのケースはむしろ稀で、多くの志士は尊王攘夷。幕府を倒すために薩長と手を結び、喜作たちとは敵対する関係にありました。
毛呂山町の権田直助も倒幕に身を捧げた志士の一人でした。西郷隆盛と繋がりのあった権田は、この時、薩摩藩邸屯集隊の副総裁「落合源一郎直亮」を自宅に置き飯能の動きを注視しています。
というわけで今回は、落合源一郎直亮の見た飯能戦争「前日」の様子と、関係者各位の動向。そして、ついに出陣の瞬間(とき)を迎えた尾高平九郎の勇姿を、飯能市民の残した一枚のメモから想像してみたいと思います。
5月22日 朝8時、流賊の先手勢が五月雨がしのぎがたいほど降るというのに、40人余りが鉄砲を背負い、隊伍も整わず毛呂を通行した
鉄砲は剣付き銃ではなく、短いものもあれば長いものもあり、全てが不ぞろいである
続いて200人余りが通行したが、韮山流の陣笠に蓑を着たり、合羽を着た者もいる。裸馬を一匹引いていた。またカゴも三台通ったが、一台には病人が乗っていた。全て300人足らずの人数と見えた。
これが落合の残した手記の書き出しです。大雨の中を行く、たぶん上野で戦った彰義隊たちなのでしょう。彰義隊を先頭に進軍する旗本隊の姿を、まるで足音が聞こえきそうなくらいに克明に書き残してくれました。
この隊は白野率いる御抱組を中心とした共同隊でした。共同隊は飯能戦争の始まる前日の22日朝5時に飯能を出発し、清流峠(日高市)を超え、大谷木村(毛呂山町)の民家で休憩。越生に到着すると、JR越生駅前の法恩寺に一泊します。
白野が飯能? 白野は甲府へ向かったはずだよね?
確かに白野は「戦う気はない」と甲府を目指し田無を出発しています。
しかし、戦う気はないとは言っても大村益次郎から見れば振武軍も共同隊も同じ賊ども。共同隊も討伐のターゲットとして、大村藩など官軍主力部隊の追撃を受けることになりました。
進路変更はこの追撃から逃れるためのものだったのでしょう、白野は甲府行きを諦め、青梅から元川越藩のある「前橋」を目指し進路を北に取ります。その道中にあった村こそが、なんという運命のイタズラなのか
飯能でした。
さあて、気になるのは飯能で再会した白野と喜作がどんなやりとりをしたかですよね?
飯能へ向かう官軍の数は一説によると2000から3000。迎え撃つ飯能はせいぜい600です。しかも双方には決定的な火力の差があります。鳥羽伏見を経験している喜作や比留間が「勝利」にこだわっていたとはとても思えません。
しかし白野の率いる300名は幕府の歩兵部隊ですから最新の火器を装備していた可能性があります。その彼らが味方に加われば、あわよくばということもありますよね。喜作たちは白野が飯能に留まり共同して戦ってくれるよう全力で説得を
したかどうかはまったく分かってないんですよねえ…
白野たちは21日に飯能でランチをとった後、日高市の高麗神社に「これから聖天院に向かうので世話になりたい」旨の連絡をしています。ということは、白野は飯能に留まる気は無かったということですから、やはり「非戦」は貫いていたと思われます。
しかし白野は飯能に一泊しました。その理由は、これは想像になってしまいますが
どちらもギリギリでしたからね。穏便に話し合う、という訳にはいかなかったような気もするんですよね。
落合の手記に、越生の日野屋清吉という方が白野と接触した時の話が記録されているので見てみましょう。
我が部隊は「共同隊」と言い、松山陣屋(東松山市役所内)に戦う気はないので降和したいと連絡をしたのだが、いまだその返事がないので待っているところだ。私たちは東叡山屯集(彰義隊)の者ではないのだが、官軍が大勢やってきて江戸に居ることも難しくなったので、前橋候(前川越藩主)から官軍に嘆願を願い、寛大な処置を待ちたいと思っている。百姓に無理難題をふっかけ金銭を強奪するようなことは一切していない。飯能には振武軍といって乱暴な連中もいたけれど、私たちはどんなに飢えようとも仁を欠いたものは食わないつもりだ。ただ、私たちも武士だ。攻撃されれば応戦はする。もはや政権は朝廷に帰った。罪のない徳川浪士の身の行く末、世間への吹聴、よろしく頼む。
喜作たちのことをはっきり「乱暴な連中」と言ってますね。何もなければ乱暴な、なんて言うはずはありませんよね。
飯能の人たちにとって喜作たち振武軍の来訪は、フツーに考えて迷惑なものでした。
飯能に端を発した「武州一揆」は収束しましたが、人々は未だその疲弊から立ち直ってはおらず、草を食う乞食同然の暮らしをしている地域もあると、訴え出た書状に見ることが出来ます。そこへ戦争がやってくるのですから、飯能の絶望は筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。
ところが、伝わっている風説を見ると、必ずしもそうとはいえない状況も見えてくるんですね。
飯能の、一部の人のみだったのでしょうが喜作たちに好意的だった理由は、ひとつは飯能は一橋領であったこと(幕府への貢献意識 & 喜作は顔見知り)。ひとつは、まさか徳川の時代が終わるなどゆめゆめ思っていなかったこと(お上が負けるはずがねえ)。
もうひとつは「比留間良八」の存在あったのではないかと思います。
比留間については7話で触れましたので詳しい説明は省きますが、彼は甲源一刀流の三代目としてブイブイ。慶喜に仕え、長州征伐、鳥羽伏見の戦い等でブイブイ。直近では彰義隊14番隊隊長としてブイブイ言わせまくった男です。
結果として郷土を戦禍に巻き込むことになりはしましたが、官賊どもをホームに迎えての大一番! アドレナリン出まくりで村人を鼓舞、村人もそれに応え大いに張り切っていたのかもしれません。
いやいやいやいや、武力をチラつかせて強制的に動員してるでしょ
もちろん、その様なケースもたくさんあったと思います。けれど、22日の午後2時頃でした。100名程の兵が隊列を整え飯能を出発します。その光景をとある飯能市民はこう書き残しました。
美麗ノ支度。
振武軍の来訪は飯能にとってめっちゃ迷惑なことでした。それは紛れもない事実なのですが、どこかに彼らを応援したいという空気があった。それがこの一言に込められているような気もするんですね。
出陣した隊の隊長は尾高平九郎でした。
イケメンイケメン、イケメンばかりに注目が集まるのも違うと思うのでイケメンイケメンあまり言いたくないのですが平九郎はイケメンです。そのイケメンの出立ですから、そりゃあ美しかったことでしょう。
それはさておきです。箱根ヶ崎の夜(第4話)あたりから振り返りますね。
上野を目指し夜通し走ったあの夜から、出陣のこの日まで、天候はほぼすべて「雨」でした。着替えなど持っているはずはないし、この状況の中、洗濯をしたり、風呂に入ったり、ヒゲを剃ったりする余裕も彼らには無かったと思います。
そんなドロドロだったはずの平九郎を、喜作たちは、美しく仕立て直し、戦場へ送り出しました。
なぜ平九郎が最も危険な「奇襲」を担当したのか。志願なのか命令なのか、喜作や新五郎とは一体どんな話を交わしたのか。
そして、なぜ身支度を整えたのか。
それらについての記録は一切残されておりません。
喜作、新五郎、平九郎、3人の揃った最後の瞬間だと思うのですが、後の喜作は飯能で起きたことについて、ほとんど何も語ってはいないんですよね。
今回もすごいと思いました。
【飯能戦争①】から読み直したいのですが、
ボタンで戻っていくと、別な記事が出たりしてしまいます。
最近の投稿の表示を長くしていただくとか、
①~⑬まで、スムーズに読める方法はないでしょうか。
なにとぞよろしくお願いいたします。
いつも楽しく読ませてもらっています。
自分は毛呂山の名主だった伊藤八郎右衛門(八郎右衛門は世襲名)の子孫にあたる者です。
当時の八郎右衛門は名主(読書階級)として、また、隣近所に権田直八さんがいたので思想的にバリバリの勤王だったんだろうな、なんて想像しています。
そんな中、毛呂山と権田さんの話が出てきたので、嬉しくてついつい…
これからも楽しみにしています。
ありがとうございます。
直助さんを直八さんて書いてしまった…
失礼しました(__ __)