所沢の動乱・2【飯能戦争⑨】
Posted on by eiji
江戸城総攻撃は、西郷隆盛が勝っつあんの説得に折れ「中止」が決定されました。
これを、すでに山岡が話を付けていた、パークスの圧力があった、などなど「美談が過ぎる」という人もありますが、今日のところはそんなこたどうでもいいです。肝心なのは、江戸へ向かう官軍が「埼玉」を通過していった、そして、その通行のために所沢も大きな被害を被ったという現実です。
それでは! 前回に引き続き慶応4年の所沢を見ていきます。盛りだくさんなのでちょーーっち巻きでいきますねっ
鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、早速、幕府軍追討のための軍隊を編成、江戸へは、岩倉具定(ともさだ)率いる東山道の隊と、橋本実梁(さねやね)率いる東海道の隊を派遣しました。
先ずは東山道の隊が「熊谷」に入ります。
東山道隊は
蕨宿に陣取るから兵員輸送を手伝うように
各地に指示。それを受けた所沢は、勝楽寺村、新堀村、山口町谷村、河辺村、他より200人余りの人足を召集、蕨宿へと送り出します。
次に甲州街道を進軍する諏訪藩より
布田宿(調布)までの人馬継立を命じる
という指示があり、所沢村、久米村、北野村、糀谷村、三ケ島村より、やはり多くの所沢市民が布田宿へと向かいます。
続けて、東海道の隊より
村高100石につき金3両と米3俵を課す
この指示については、さすがに負担が大きすぎると談判、半額にまけてもらい納めました。
遅れて、北陸道の部隊も大宮に入り
村高100石につき6人の人足提供を求める
のですが、ごめんなさい、長くなるのでこれくらいにしておきます。
所沢は大変だったんですねwww
違います! ちょっとだけ振り返りますね。
東山道隊は熊谷~蕨。
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