旧浦和市の地名
田島
川の氾濫地域の水没しない高台に島の字を当てることがあります。渋沢栄一の生まれ育った深谷市血洗島もそうですね。田島は班田収授法以来の条里遺構のあるところ。田んぼと高台で田島ですね
曲本
ここで荒川が湾曲、曲がっていたようです
松本
幕末に編纂された風土記稿に浅草の松本小右衛門故ありて当所を預かるとあるので松本さん、人の名前ですね
沼影
沼の北側を指していると思われます。山陰山陽地方の陰ですね。日本海側を裏日本と呼んだり、北側に影・陰・裏などの文字を当てることがあります
内谷
谷の内側と書きますが地名の由来には触れたことがありません。ただ氷川神社のあたりに用水路が集まっていたらしく、政治的にもこの地域「笹目郷」の中心の町でした。笹目郷は近いうちにテーマとして取り上げます
美谷本・美笹
美女木の美、内谷の谷、曲本松本の本を合せて美谷本。美谷本と笹目が合体して美笹です
鹿手袋
もともとはシッテブクロでした、が、平成2年に正式にシカテブクロになっています。袋は川の水の溜まるところ、シッテは尻手、終わりのことをドンジリと言いますよね、袋状の地形の終わりを意味していると思われます
白幡
将門を追う藤原が、という説を多く見かけますが、源頼朝のご先祖、経基の方がしっくりくるのかなと思います。経基が調神社周辺に住われていた武蔵竹芝に恨みを持つのはまあ仕方がありませんwww 武芝襲撃のためここに陣を置き源氏の白い旗を立てた、で、白幡。経基もそのうちテーマにます
六辻
お馴染みの地域名なのに大字として存在しない。尾間木や土合もそうですね。後ほどまとめて触れます。辻は交差点の意味。ここを鎌倉街道が通っていました
文蔵
天正18年、豊臣秀吉が小田原を攻めた天正18年という年号だけはちょこちょこ出てくるので覚えちゃって下さい。天正18年、小田原城落城の後、二階堂資朝という方が文蔵に落ちて来たという記録があるので、文蔵はそれ以前に二階堂氏によって開かれたと考えることが出来ます。文蔵は資朝ないし資朝のお父さんの実名ではないかとのことなので、元はブン蔵だったかもしれませんね
大谷場・大谷口
谷は湿地を指すので大きな湿地帯。口にはへりふちなどの意味があるので、湿地の端っこ、で良いと思います
大牧・大間木
二つの地名に共通するマキは牧場のマキ。駒場や駒形など、馬関連の地名が周辺にあるので、馬の飼育をしていたところ、で、問題ないと思うのですが、大牧大間木、音の同じ地名の並んだ理由は分かっていないようです。オオマキの初登場は1382年、足利氏満の発行した書状の中に大牧。しかしその後は「大まき」となります。境界が入り組んでいるところからも、揉め事があった、どちらもうちが本家だ言い張った、元禄期に「ややこしいからせめて字だけも変えろ」幕府に怒られて大間木が成立した、そんな感じだろうと私は思いますが、分かりません
明花
まったくの不明です。古い小字がバス停や公園の名前として復活したのだと思いますが、江戸時代の小字に明るい花、いささか違和感があります
間宮
吾妻鏡の宇治川の戦いのページに登場する麻弥屋四郎次郎は、ここに本拠があったと考えられているので、鎌倉、平安期にまで遡れる古い地名である可能性があります。岩槻城主太田氏資の家臣には間宮さんがおられます
大門・寺山
日光街道御成道の宿場町、ということで現存している本陣の表門が由来、と思ってしまいがちなのですが、大門の初登場は1415年、宿場町の成立するはるか前のことなのでその線はなさそうです
それではどこの門なのか
近くに寺山があります。寺があったから寺山なのですが、やはり天正18年に焼失、岩槻を攻めるたぶん浅野の軍でしょうね、焼かれてしまいました
その寺の門が大きかったから大門!と言いたいところなのですが、分かっていません
美園
野田、大門、戸塚が合併、誕生した新しい地名です。どの村にも植物園的な要素、植木でしょうね、があったことから園。三つの村の「三」のを良い字である美に置き換え美園。しかし今は戸塚が川口市なので二園
南部領辻
領家の領の字から荘園由来であることは読み取れますが、南部がはっきりしません。南部が南なら北部などがあっても良さそうなものですしね。辻は交差点ですね
野田
野原の野に田んぼの田。今は野原だけども、開発すれば作物の取れる場所になる、という意味があるようです
代山
古くは大きいに山、台の字に山とも書いていたようなので、台地アンド山、高台ですね
三室
三室は御室、神社そのものを意味しています。氷川女体神社を指す言葉がそのまま地名になっているということですね。宮本もお宮、神社のあるところです。氷川神社はいつかまとめて取り上げたいと思っています
三崎・三浦
なんか神奈川っぽい、思われているかもしれませんが、三室の三に浦和の浦、三室の三に木崎の崎を合わせた浦和純度100パーセントな地名です
道祖土
まずは、この地名を残した旧浦和市に拍手!ぱちぱちぱち〜
旅の安全を祈る道祖神由来説が有力です、が、道祖神なら他にもいっぱいあるやろ思いますし、風土記稿にも「されど正き説とは思われず」とあります。岩槻太田市の家臣に比企郡川島町に住われていた道祖土さんがおられるので、その方の「何か」があったのではないか、と私は考えたいです
皇山町
牛頭天王を祀る「天王社」があったのではないかと考えたことがあります。ただ牛頭天王は祇園精舎の守護神なので、天王社は廃仏毀釈の際にみんな名前を変えられてしまい調べるのがめんどくさいです。ただ与野に八王子があります。八王子とは牛頭天王の八人の王子という意味ですので、なくはないなあとシロート妄想ですが思います
針ヶ谷
針のような細い谷があった説と、ハリは榛の木の古い言い方なのでハンノキのあった谷説があります。徳川家康が江戸に入府した際、岩槻と浦和領を与えられた高力清長に任命された代官、三郎さんのお名前がマンションに残っていました
木崎
キは柵を意味するので城があった、という説明を見ましたが、城のあった痕跡はないそうです
原山
てっぺんが原っぱのように平らな台地。ディグダグ2地形ですね
花月
花月という屋号のお店があったそうです。もちろんラーメン屋ではありません
中尾
ナコが転じたもの。ナコとは小さな平地、とあるのですが、あまり好きな説じゃないですね、まあ好き嫌いじゃないですけどね。中尾もコレラ騒動のあったところ、近いうちに取り上げますね
本太
フト、またはホトは、女性のおまた説、が有力なんですかね、よく見かけます。窪みがあった、特徴的なワレメがあった、そんな感じだと思うのですが、窪みをおまたにしていたら、浦和なんて半分くらいがおまたになっちゃうような気もしますけどねwww おまた地名は神奈川県保土ヶ谷市、おとなり大宮市にもありますね
太田窪
浦和で6年仕事をしたことがあるのですが、浦和の人は太田窪を「ダイタクボ」フツーにに言い過ぎだと思います。うちにある本の中でも特に表紙の可愛いこちらを書かれた先生は太田窪をこうおっしゃっていますよ〜
太田をダイタと読ませるのは尋常ではない
尋常じゃない地名なんて他に聞いたことないですねwww
巨人、ダイタラボッチにちなむ地名です。県内だと横瀬町の芦ヶ久保、大きな窪みを巨人の足跡に見立て命名された地名だと思われます
領家・別所
は荘園領主のいたところ、と捉えるのが一般的でしょうか。別所は、別に開いた土地、別の人たちに開墾させた土地、ちょっと難しいみたいですね
大在家
こちらも荘園由来の地名です。在家は田を耕す人たちの住んだ場所、で良いのかなと思いますが、出家をしないでお坊さんになることを在家と言ったりもします
高砂・常盤・仲町・岸町
民宿の宴会場のようなネーミングからも想像できますが、昭和になり成立した新しい地名です。元は本宿、上宿、中宿、下宿、岸分宿、そして浦和町などでした。まちとちょうは昭和30年代後半からの「住居表示に関する法律」に基づき変更されているので、今はちょうと読みますが、まあどちらでも間違いではないですね
浦和
浦和というと、かつて海があったので浦、という話を耳にすると思うのですが、浦和に海があったのは直近でも六千年前、その時代の記憶が文字に残るかという問題と、和の字には元々、回、廻、曲の字が当てられていたことから、荒川の屈曲点を見て浦曲、と考えるのが自然だろうとのことでした
コルソ
浦和駅が開業した頃の絵図です。この後、高崎線沿いの人口が増え、客車が追加され列車が長くなると、ホームの長さが足りなくなるという問題が起こり、確か浦和駅は少しだけ東京側に移動するんですよね。その関係で、元々あった道の上に伊勢丹とコルソを建てざるを得なくなった。しかしこの道、今のさくら草通りは浦和発展の礎になった道、絶対に忘れちゃなんねえ、ということでイタリア語で道、コルソという名前が選ばれています
土合・六辻・尾間木・谷田
村々の合併により成立した自治体が、浦和市に吸収される際に解消、元の村々に戻るのですが、その時の自治体名が地区名として残ってしまったというパターンですね
合併の際は、その地域で一番存在の大きな村の名前を採用する、大久保、野田、三室、木崎がそうですね。歴史を重んじた名前を採用する、志木市がこのケースですね。一文字ずつとって合体地名にする、中尾と大間木で尾間木。この三つが多いのですが、土合六辻谷田はちょっと面白いので触れますね
まず谷田
大谷口、大谷場、広ヶ谷戸の谷と、太田窪、原山新田の田が合体しました。たまたま谷の字と田の字がかぶっただけですね。蛋白だなあ、誰か言わなかったんですかねwww
六辻
村の大きさでは辻村だったのですが、根岸、白幡、別所、文蔵、沼影が納得しなかったらしく、かといって一文字ずつ取ればとんでもなく長い地名になってしまうので、不本意ながらという気持ちも感じますよね、六つの村の合併、で、六辻としましたwww
土合
鹿手袋、新開、南元宿、田島、関、町谷、西堀、道場、栄和、山久保、中島、十一のむらが合併するのですが、六辻がああですから、こちらも揉めたんでしょうね。十一の村が合併、十一合併、十一合、これを縦にぎゅっと縮めて土合にしましたwww 天才だと思いますwww
新開
天正18年、岩槻城落城後、岩槻に関係のあった武士が帰農、武士をやめて農民になるということですね、新しく開いたので新開というそうです
道場・大久保
畠山重忠に因む地名です。重忠が住んでいたということは、その時代、道場はとても価値のあるところだったということです
大久保には古代の寺院跡があります。重忠の活躍するずっと前の奈良時代の寺院跡です。奈良時代から鎌倉時代にかけて、旧浦和市地域で最も栄えていたのは大きな窪地で大久保、というか低地、広く稲作の出来たこの辺りだったのかもしれませんね