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熊谷県の始まりと終わり・前編【県庁所在地争奪戦③】
ちょ、ちょっと待ってくれ渋沢。おめえ本当に良くしゃべんな
まあそう言うな、これは熊谷の将来、いや、この国の根幹に関わる話になるかもしれねえ。そのためには竹井、お前のチカラが必要なんだ。しっかり聞いてくれ
新橋と横浜の間に鉄道が開通したのはおまえも知っているだろう。新政府、と言ってもまだまだ反対意見は多いのだが、伊藤と大隈はこの鉄道を京都まで延伸しようと考えている
横浜からということは東海道か
ああそうだ。だがこのあいだボイルというエゲレス人に話を聞いたんだ
ボイルは東海道は無理ではないが、かかる費用に対する利が得られないのではないかと言っていた
なぜだ、東海道は往来も多いし、鉄道が通れば皆が喜んで利用するであろう
そこだ。東海道沿いはすでに発展しているし大阪からの船も多く行き来している。そこに鉄道を敷いても競合をするだけだ。二重投資になってしまう可能性もある
それにだ、鉄道を敷くには駅や線路を作るための用地を確保しなければならない。今の政府に東海道沿いの土地を買収する金はねえ
渋沢がないと言うのであれば無いのだろうな
もう一つ、鉄道を敷くのにイチバン金のかかるのは橋だ。鉄の塊である機関車を通すんだ、今までのように木や石で作るわけにはいかねえ
なるほどなあ、色々あるんだなあ。あ、まさかおめえ中山道を
勘がいいな竹井、その通りだ。ボイルのチームは中山道を調査するためすでに高崎へ向かっている。決定はまだまだ先だが、中山道案が決まった場合、鉄道は間違いなく熊谷付近を通るであろう。いや、熊谷しかねえ
深谷でなくていいのか
鉄道が高崎まで通った場合、兄ぃの富岡製糸場はもちろん、秩父や寄居、羽生などで作られる生糸も鉄道で運ばれる。そして少し古い話になるが(ここだけの話だかんな俺がこんなこと言ってたなんて他で絶対言うんじゃねえぞ)孝明天皇の「おかげ」という言葉を使っちまおうか、孝明天皇の異人嫌いのおかげで神戸は開港が大幅に遅れた。この国最大の輸出港は横浜、この地位はしばらくは揺るがねえ
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所沢の動乱・2【飯能戦争⑨】
江戸城総攻撃は、西郷隆盛が勝っつあんの説得に折れ「中止」が決定されました。
これを、すでに山岡が話を付けていた、パークスの圧力があった、などなど「美談が過ぎる」という人もありますが、今日のところはそんなこたどうでもいいです。肝心なのは、江戸へ向かう官軍が「埼玉」を通過していった、そして、その通行のために所沢も大きな被害を被ったという現実です。
それでは! 前回に引き続き慶応4年の所沢を見ていきます。盛りだくさんなのでちょーーっち巻きでいきますねっ
鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、早速、幕府軍追討のための軍隊を編成、江戸へは、岩倉具定(ともさだ)率いる東山道の隊と、橋本実梁(さねやね)率いる東海道の隊を派遣しました。
先ずは東山道の隊が「熊谷」に入ります。
東山道隊は
蕨宿に陣取るから兵員輸送を手伝うように
各地に指示。それを受けた所沢は、勝楽寺村、新堀村、山口町谷村、河辺村、他より200人余りの人足を召集、蕨宿へと送り出します。
次に甲州街道を進軍する諏訪藩より
布田宿(調布)までの人馬継立を命じる
という指示があり、所沢村、久米村、北野村、糀谷村、三ケ島村より、やはり多くの所沢市民が布田宿へと向かいます。
続けて、東海道の隊より
村高100石につき金3両と米3俵を課す
この指示については、さすがに負担が大きすぎると談判、半額にまけてもらい納めました。
遅れて、北陸道の部隊も大宮に入り
村高100石につき6人の人足提供を求める
のですが、ごめんなさい、長くなるのでこれくらいにしておきます。
所沢は大変だったんですねwww
違います! ちょっとだけ振り返りますね。
東山道隊は熊谷~蕨。
…
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所沢の動乱・1【飯能戦争⑧】
慶応4年5月17日、早朝5時。
御抱組と彰義隊のケガ人を合わせた「共同隊」が甲府を目指し田無を発っていきました。
遅れて9時。
渋沢喜作率いる振武軍が「飯能」へ向けて出発します。
この時の行程を、ほとんどの資料が「田無を出発、所沢でランチをとり、扇町屋に宿泊。翌18日、飯能へ入る」の一行のみで終わらせてしまうのですが、これだと喜作たちがいつもと変わらぬ所沢をすんなり「素通り」していったように思えますよね?
とんでもないです。
喜作たちの通った頃の所沢は「動乱」のまっただ中にありました。今回は、慶応4年の春から夏にかけての所沢がどんな目にあっていたのか、そこに焦点を当てて見ていきます。少し話は逸れますが、周辺地域の苦悩をスルーして飯能に入る訳にはいきませんからね。
喜作たちが所沢を通ったのは慶応4年の5月でした。けれど少し戻って3月の終わり頃からお話させていただきますね。
勝楽寺村事件
慶応4年3月30日。所沢勝楽寺村城山に、北野、三ケ島、宮寺の博徒(ばくと)、まあヤンキーみたいなものですね、ヤンキーが100名ほど集まり、山口村に、飯の準備をしろ、酒持ってこい、拒否するなら打ちこわして放火するぞと脅しをかけました。
所沢村は早速「農兵」の出動を要請、4月1日に城山を包囲し発砲、ヤンキーどもを鎮圧します。
翌2日、三ケ島村、糀谷村、林村などの名主が所沢村に集まり、この事件をどう代官所に報告するかを協議
そして「奴らも後悔しているので許してやって欲しい、ウチで引き取り改心させる」と三ケ島村が申し出たことで、内々に処理することを決定、事件は一応の決着をみました。
この事件から、どのような背景が見えてくるのか考えますね。
まず一つ、根底にあるのは言うまでもなく「貧困」です。暴力に頼らざる得ない程に追い詰めらた者たちがチームになり、村の治安を脅かしていました。
次に、所沢の農民はヤンキーを鎮圧するために「銃」を使用しました。銃と言ってもイノシシやシカを獲るための火縄銃じゃないですよ。まあ火縄銃もあったかもしれませんが、使用したのは幕府の許可を得て所持している戦闘用のゲベール銃でした。
幕末の関東は「リアル北斗の拳」と言って差し支えのないほどに荒れ果て混乱した状態でした。村々の貧困は極限に達し、博徒と呼ばれるアウトローが勢力を拡大。力の衰えた幕府にそれを抑える力はありませんでした。
…
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新説・田無会議【飯能戦争⑦】
振武軍隊長、渋沢喜作である
皆にはかけたい言葉もあるのだが、誰もが察しているように今は時間がない。この場で、これからのことを取り決める
先ず、我々振武軍だが、武州飯能へ行こうと考えている。飯能を選んだ理由は、我が隊の参謀、尾高新五郎より説明する
尾高新五郎である。飯能を選んだ理由は二つある。一つは飯能のある武州高麗郡は一橋領であることだ
我々は先日、青梅の御岳(みたけ)を候補地と定め見聞をした。しかし御岳は、山深きこと甚だしく、食料の補給が困難であった
飯能であれば、徳川家再興の為に、主君慶喜公の汚名を晴らすために戦う我々に、宿営地、食料、人足、その他物資の協力を惜しまないであろう。飯能は、長期戦になった場合でも耐えうる場所だと考えている
もう一つは、飯能は背後に広大な「山地」を抱えていることだ。御岳を見聞した理由も同じであるが、もし、官賊どもに押し切られた場合。飯能であれば、山越えに各地に逃れることが可能である。さすれば、再挙をはかり、あくまで主君の…
戦う前から負けることを考えているのか!
何もかも生きていてこそ成し遂げられることなのだ。死ぬが忠義であると考えている奴は今すぐ上野へ戻り薩長のケダモノどもに斬られてくるがいいっ …私からは以上である
オレから言っておく。彼らはすでに恭順済みだ。我々と共に戦うことはない。…改めて、それでよろしいか
ああ
白野様、それではなぜあなた方は田無におられるのですか。我々上野からの部隊の後を追い、ここに行き着いたのではないのですか
オレたちは甲府へ向かっている。貴様らを追ってきた訳ではない
しかし、白野様とて旗本の誇りを捨てた訳ではありますまい。本心は別のところにあるのではないのですか
捨てただと?
まあまて。実は先ほど、オレも白野殿の説得を試みたのだ。我々としても今は一人でも多くの兵が欲しい。まして白野殿の隊は無キズだ。共に飯能へ行って欲しい
が、よくよく考えてくれ。我々は主君慶喜公に「戦うな」と釘をさされている。それでもこうなってしまったのは、それぞれの気持ちが許さなかったから、言うなれば勝手だ。残念ではあるが、白野殿の判断に分があると思う。白野殿、すまぬが傷ついた彰義隊、仁義隊らの隊士を数名でいい、預かってはくれぬか。連れて行ってもとても戦力にはなりそうもないんでな、ハハハ
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下田半兵衛と御抱組【飯能戦争⑥】
平九郎! どうした! なぜ戻って来た!
ば、伴門五郎、討ち死にっ
伝蔵はよほど気が合うのか伴と常に行動を共にしていました。
伝蔵がもし水戸から戻っているなら、伴と一緒に戦闘に参加していると思われます。
その伴が討ち死にしたと
青ざめた顔で
平九郎は告げました。
喜作は「このまま上野に行ったところで仕方がない」と退却を即断、再び「田無」に陣を置きます。
とはいえ戦争は田無から遠くない上野で勃発しました。彰義隊は半日で壊滅。生き残った隊士が続々と田無に集結しつつあります。
それを追う官軍が押し寄せるのは時間の問題
喜作は、再び西へ下がることを、具体的に言うと「逃げる」必要に迫られました。
白野耕作は幕府の年貢米を保管する蔵の警備を担当していました。彰義隊に参加することはなく、16日の夜明けを待ち浅草を出発、田無へ到着すると
これはヤバい。
敗走兵のあまりの多さに、このままでは田無が残党狩りに巻き込まれてしまうと「心配」しました。
白野について少し触れておきます。
白野は山梨県大月市笹子の人でした。
出身が大月ですから、江戸と大月の行き来をするのに、甲州街道の脇往還である青梅街道は利用したことがあったかもしれません。
もし無かったとしても、白野はロシアのプチャーチンと力強くやりあった岩瀬忠震(いわせただなり)に仕えていましたので、岩瀬が安政3年に小金井の桜堤を見に来た際、一緒に田無にも立ち寄っているはずです。…
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須永於菟之輔の安否【飯能戦争⑤】
蓑、ちょうちん、頭巾、風呂敷、カッパ。
振武軍が箱根ケ崎に置いていった「忘れ物」の一覧です。
カッパを忘れるなど、慌てる彼らの姿が目に浮かぶようでもありますが、あるいは、西の空は雲が切れはじめていたのかもしれません。
降り続いた雨は、明け方までには上がっていました。
結果から言うと、喜作たちは高円寺まで進んだところで「彰義隊敗走」の報に接し田無に退却しました。
歯がみし足ずりして悔しがったが仕方ない
オレたちも戦いたかったのに悔しいなあ、的なことを晩年の喜作はぶっこいておりますが、喜作のコメントについては
40年前の回想だし、自分に都合よく語っている部分もあるだろう
田無市史もそう言っているので参考程度にしておきます。
奥様のどこに惹かれましたかと聞かれて「おっぱい」と答える男がいないのと同じことですね。もちろん、喜作を嘘つき呼ばわりしている訳では断固としてありませんので以後、その点をご了承いただきお付き合い下さいませ。
箱根ヶ崎に下がった喜作が、どれほど本気で上野を応援しようと思っていたのか。思い切って言ってしまうと、その気は「ほとんど無かった」のではないかと感じています。
喜作は慶喜に「戦うな」と釘を刺されていました。
後にもう一度触れますが、青梅を検討したのも、飯能を行き先の候補地にしたのも、この二ヶ所が「生き延びる」ために最低限必要な条件を満たしていたからだと思います。
そんな喜作が上野に間に合ったからといって
突撃ーーー!!
みたいな無謀な真似をするとはとてもではありませんがイメージすることが出来ないんですね。
しかし。
喜作たちは大慌てで、箱根ケ崎ー上野というアホみたいな距離を徹夜で駆けていきました。
須永は栄一のお母さんの妹の子、つまり渋沢栄一の「いとこ」です。
…
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渋沢喜作と天野八郎【飯能戦争②】
探したぞ、喜作。
喜作のもとにやってきたのは、ときに兄、ときに師、またときには同士でもあった、地元深谷の大先輩「尾高新五郎」でした。
久しぶりの再会に募る話もあったのでしょう。新五郎は、京都へ向かったこと、喜作が江戸へ戻ったことを知りUターンしてきたこと、鳥羽伏見で何があったのか真実を知りたい、などなどを矢継ぎ早にまくし立ててきました、が! 喜作が気になったのは新五郎の長い話などではなく、彼の持つ一通の「お手紙」の方でした。
キミたちの知り合いに即戦力になりそうな人材はおらぬか
それなら地元の先輩に尾高新五郎という者がおります。社長のご実家である水戸を心から愛する男ですので、呼べば大喜びで飛んでくると思いますよ。なあ、栄一www
尾高新五郎とやら召し抱える。喜作、すぐに手紙を書けい!
幼少の頃より憧れていた徳川斉昭の息子、徳川慶喜からのお手紙を
新五郎は
土埃舞う
深谷というど田舎で受け取ったんですよ?
ネギ畑の中心で愛を叫ぶ!!
そりゃあ鼻の穴も広がっただろうと思いますねwww
とはいえ手紙を受け取った時と今とでは状況が一変しています。
本社を追われた慶喜は、もはや社長ではありません。しかも薩長は「責任はすべて慶喜にある」と岡山(備前)への引き渡しを要求。もしそうなれば奴らのことです、首を切らずに(物理)済むはずがありません。
…
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課長 渋沢喜作【飯能戦争①】
いよいよ舞台は「飯能市」へと至る訳ですが、なぜ渋沢喜作は彰義隊を率いることになったのか、なぜ彰義隊は分裂、決戦の地を飯能に求めたのか、いまいち、というかほとんどピンときませんよね?
なので「飯能戦争」の一回目と二回目は、飯能に至るまでの経緯を分かりやすく「現代ドラマ風」にして見ていきたいと思います!!
時系列がおかしいとか、薩長の扱いがヒドイとか、いろいろ出てくるかもしれませんが、あくまで佐幕、あくまで個人ブログですので、プリプリむくれることなく、どうぞ! 最後までお付き合いくださいませっ
物語の主人公である渋沢喜作(しぶさわきさく)は、深谷市の農家の家の長男としてこの世に生を受けました。
実家を継ぐことはなく、日本全国にフランチャイズを持つ「株式会社 徳川カレー」に中途採用されると、その働きっぷりが社長である「徳川慶喜」の目に留まり、20代にして管理職に抜擢。そのまま慶喜の側近というポジションに収まります。
そしてつい先週、長く滞在していた京都(鳥羽伏見)から本社のある江戸に戻ってきたばかりのところでした。
株式会社徳川カレーは、日本最大のカレーチェーンとして世に君臨していましたが、創業より約260年。屋台骨は腐りきり、中国・九州地方のフランチャイズからは「独立」を訴える声も上がっていました。喜作が京都へ赴いていたのもフランチャイズとのトラブルに対応する為でした。
とは言っても、トラブルを解決した訳ではなく、むしろ取り返しのつかない状態にしてこっそり帰ってきちゃったんですけどね(てへぺろ)
あ、てへぺろなんておちゃらけたら勝部長 にまた怒られちゃいますね。
京都から戻った日の品川は控えめに言ってとんでもない修羅場でした。
どうなさるおつもりだ!!
勝部長が慶喜社長に対し思い切り吠えちゃったんですよね。
社長に対してその口の利き方はと周りが制しても、勝部長は涙を流し嘆息するばかり。
喜作に責任がある訳ではありませんが、社長が責められる場面に喜作はもちろん、その場にいた皆の顔がまっ青になりました。
本社は今日からボクたちのものーーーwww キミたち全員クビーーーwww しばしの時間をやるから速やかに本社を明け渡すよう通告しまーーーすwww
問題のフランチャイズ店のスタッフです!! 奴らがついに江戸本社に乗り込んできました!!
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