内池武者右衛門と時の鐘【川越市】
大阪城を作ったのはだーれだ?
豊臣秀吉!
ブッブー! 大工さんwww
このくっだらないなぞなぞを
200年以上続いた鎖国を終わらせたのはだーれだ?
に置き換えた場合
豊臣秀吉のところは
老中首座 阿部正弘
大工さんのところに当てはまるのは
川越藩!!
という訳で今回は、果敢にも少人数で黒船に潜入、お引き取りいただけるよう尽力した川越藩のある男について見ていきます!
無名に近い男のエピソードではありますが、県民として知らないままではもったいないなあと思いますので、埼玉県民も、そうでない方もどうぞ! 最後までお付き合い下さいませっ
ビッドル艦隊来日についてはコチラをご覧いただくとして ( 埼玉県に黒船来航・前編 )この日、城ケ島の沖合に黒船が出現!を受信した川越藩士12名は、陣屋のあった浦之郷より小舟で出撃、ビッドル艦隊二隻のうちのヴィンセンス号に接近しました。
この川越藩士の中にいた
内池武者衛門(うちいけむしゃえもん)
という方がこの時の事を詳しく手記に残してくれましたので、ここからはその手記を
脚色せず
そして盛ることなく
忠実になぞっていきたいと思います。
途中、いや冒頭より
盛ってんじゃねえの?
と感じるところがあるかもしれませんが、自分に念押ししておきます
話は盛りません。
そこをご理解いただき、早速、彼の手記を見ていくことに致しましょう!
予、飛びつき飛び上がらんとする処に、右の鎖ゆるみて海中へ両足踏み落とし、されども身を返し、異船の大筒足溜まりとして二番乗りの内、予、一番に乗り上がる
オレ氏、黒船に飛びつき上がろうとしたが鎖が緩み海へと落ちた。しかしオレは身を返し、大砲を足場にして(甲板に)一番に上がった。二人同時だったがオレの方が早かった
御船印持ち上がる処、異人大勢集まり、下せ下せと手真似にて、何れハアハアバアバア申し
船首に旗を立てようとしたら外人どもが大勢やってきて手真似で下せ下せとやる。ハアハアバアバア、何を言ってるのかは分からねえ
予、片手に御船印を持ち、片手にて親指を出し候へば、異人静まり申し候に付き、予が鼻へ指さし、壱番に上り候印に建てると申す手真似いたし候へば、早速異人招致致し候に付き
片手の親指を差し出すと外人どもは静かになった。オレは親指で鼻を指し、一番乗りの旗を建ててやるんだと手真似をした。すると外人どもはすぐに分かってくれた
しかもアメリカ人たち、それは大事なことだな、と言ったかどうかは分かりませんが、旗を建てる作業も手伝ってくれましたwww
予、異人に向ひ世話に相成り候と申す手真似をいたし ~ 日本法と申し候
オレ氏、世話になるがヨロシク頼むと手真似をし、この挨拶も日本の作法であると言ってやった
えっと、念のためもう一度確認しておきますね
私、話盛ってませんからねwww
武者右衛門の手記は終始このようなテンポで書かれています。アメリカ人と初めてガチで接した日本人が身振り手振りでこの国の岐路に立ち向かっていく、その様を描くにはあまりに滑稽な内容ですが、きっとこれが歴史のリアル。当ブログもリアルに沿って進めていきたいと思うのですが、このペースだと終わりませんのでちょっと巻いていきますね!
予、親指差出し、頭文は何方に在哉と申す手真似を致し
乗船致し候面々、予をはじめ一統
黒船に乗船した日本人、オレをはじめ全員で
帆をまけと申真似致し
帆を巻いて停止せよとジェスチャーし
手拭いを巻き!!
アレ(帆)をな、こうやってグルグル巻いて船を止めるってこった。分かるかなー、分かんねーだろうなー、ということですねwww
観音崎の方へ一統指差し ~ 彼の地へ乗り込み候はば此船みじんに打ち破ると申す手真似
もしお前らが我々の国に上陸しようとするならば、あそこ(観音崎)にある大砲がこの船を木っ端みじんに打ち砕いてくれるだろう、手真似
其上我々ども腹切り候、果てずば相成らずと申し手真似致し候へとも、腹切りよりは
その上、我々も責任を取り腹を切らなければならない手真似。腹を切るくらいなら
片はしより(おまえらを)斬り倒し申し候!!
ペリーもそうでしたがビッドルもそれなりに日本のことを勉強していたのでしょうね。武者右衛門がハラキリと言うと速やかに船を停止させましたwww
坊主にて髪の長き事三四尺とおぼしき男、紙と白箸のような物を持来り
坊主なのに髪が長い。恐らくラーメンマンだと思うのですが、紙と白い箸のようなものを持ってきて
小刀で四方を削り
筆のように致し
箸の中より墨出し申し候!!
これ鉛筆のことですよね!?
乗船致し候面々一統に腰兵糧(お弁当)を遣ひ候処、異人大勢集まり見物致し居り候て
お昼になったので、乗船した日本人みんなでお弁当を広げたところ、外人どもが寄ってきてつまみ食いする奴もいた。そして「オレタチノコメトチガウナ」みたいなアピールをしてきたので
日本米宜しきと申す手真似をいたし!!
片端からたたっ斬る、と息巻いたばかりなのに、鉛筆による筆談が功を奏したのでしょうか。お昼頃にはすっかり打ち解けて
100人で食べたいな黒船の上でおにぎりを♬
みたいな状態になってますねwww
武者右衛門の任務は、黒船に何らかの方法でプレッシャーをかけ「日本ハ開国スル気ナイネ、日本人トテモ強クテ怖イネ」そう思わせてお引き取りいただくよう仕向けること。言ってしまえば場当たり的な任務でした。
というか、日本の政策そのものがずっと場当たり的でした。
結果だけ見ればビッドル艦隊はそそくさと退散をしたようにも見えますが、この後歴史がどう動いていくのかを知っている現代の私たちから見れば、これらがすべて計画通りであったということが分かりますよね。
この時の出来事は、ビッドルよりアメリカ政府に報告され、後にペリーのいきなりケンカ腰の、あの強硬な姿勢へと繋がっていきました。
そしてペリーの来航をきっかけに、この国は戦争の道をひたすらに進み、多くの人の血をもって次の時代の扉をこじ開けていきました。
もしこの時
開国やむなし
その道筋にもっともっと強く光が当たっていたら。
なんてことを考えても仕方がないのですが、武者右衛門の手記を読んでいると、ヴィンセンス号の甲板に登ったすべての日本人が
この国の明るい未来を見ていた
そんな気がして仕方がないんですね。
ペリー艦隊の矢面に立った浦賀奉行与力香山栄左衛門は
アメリカの友人に乾杯!
などとぶっこき上司に怒られ仕事をクビになってしまいましたが、それは黒船に接する事で彼にはくっきりとこの国の未来が見えていたからだと思います。
なんつったって香山さん石鹸もらっちゃいましたからね。石鹸のある国の方が明るいに決まってますからねwww
ヴィンセンス号から下船をする際、武者右衛門は一人の男に声をかけられました。
おまえの持っているソレ(印籠?)が欲しい。オレの持っている何かと交換してくれないか
先ほども言ったが売買や交換は祖法に反する。すまないがそれは出来ない
このやりとりは武者右衛門の手記にはありません。
今まで見てきた書籍の中にも見たことはありません。
ところがネット上にあるんですね。なので中身半分で見ていただきたいなと思うのですが、とても興味深いやりとりです。特に川越市にお住まいの方、最後まで読んでくれてありがとうございました。大きなおみやげになると思いますので、もう少しだけお付き合い下さい。セリフは若干盛りましたけどwww
これは貿易ではない。おまえとオレとの友情の印だ
うまいことを言ったつもりだろうが、出来ないものは出来ない。あきらめてくれ
ならばこれならどうだ。安い品ではないぞ
男の差し出したものは、武者右衛門はもちろん、日本人のほとんどが目にしたことの無いものでした。そして当時、アメリカにも男の差し出した物を製造する会社は存在しませんでした。つまりこの品はアメリカ人にとっても決して一般的ではない「とっておきの一品」であっただろうと思われます。
武者右衛門は交換に応じました。
しかし何度も言いますが、これは祖法に反します。
武者右衛門は交換したことを誰にも話すことが出来ませんでした。
時は流れて明治時代。
交換したその「物」について話をすると、それが埼玉県県知事の耳に入り、武者右衛門は
高給で
川越町の
時報管理主任者に抜擢されました
川越で時報と言えばもうアレしかないですよね。
武者右衛門が交換した物とは
懐中時計でした
武者右衛門の懐中時計と時の鐘を繋げるエピソードには出会っておりませんが、なぜ川越の時の鐘だけが、現代においても時を刻み続けることが出来ているのか。そのきっかけがこの懐中時計にあるのは、たぶんですけど間違いないと思うんですね。
かつて時の鐘は関東中のあちこちで見ることが出来ました。
ところが時代は明治になり新橋ー横浜間に汽車が走ると、駅員さんは言いました
ご乗車の15分前にお集まりください
江戸時代の日本の時間の最小単位は四半刻、30分です
15分前に集まることなど出来るはずがありませんwww
そんなこともあり、正確な時刻を告げることの出来ない時の鐘は、各地でその役割を終えていきました。
しかし川越には武者右衛門の懐中時計がある
川越だけは正確な時刻を告げることが出来る
かくして時の鐘は川越のシンボルとして現代にまで守られることになりました。
蔵造りの街並みも、ペリーを押し返すためのとんでもない額の経済的負担を川越商人は負った、その代償として横浜の一等地を貿易の拠点として確保することを許された、そこからの利益により生み出された街並みであると言うことが出来ます。
訪れる度に奇跡だと思うんですね、川越のあの街並みは。