大蔵合戦、前夜【源義賢】
嵐山町で叔父である源義賢を殺害した、強い(悪)源氏の(源)長男(太)こと源義平の話は先日させていただきました。
今回は、その悪源太に討たれた源義賢という男について見ていきたいと思います。
日記の話するんだんべ?
そうですね。日記に触れない訳にはいきませんね。あまり気乗りはしませんが最後に少しだけ触れておこうと考えています。
イラスト描きたいだけだんべ?
ななな何を言うんですかwww 誰が男のハダカなんて描きたいもんですかwww
ただ、赤裸々に思いの丈を記したこの日記には、平家物語や太平記とはまるで違うリアルがビンビンに詰まっているんですね。義賢は埼玉史を語る上でも外せない男ですので、同様にこの日記も外せはしないだろうと思います。
それでは! 下ネタ回になってしまう可能性がありますが、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
源義賢とは
鎌倉幕府を開いた頼朝のパパである義朝の弟であり、あの
木曽義仲のパパです
義賢という名前から「賢い男」のような印象を持たれるかもしれませんが、ボクの印象はまったく逆で、義賢は物事をあまり深く考えずにやんちゃをしちゃうタイプ。良くも悪くも義仲のパパだなあという気がしています。
詰めが甘い、思慮が浅いと思わざるを得ないエピソードが有るので二つ紹介しておきますね。
義賢は近衛天皇を警護するという重要なポジションのリーダーに抜擢されましたが、捉えた殺人犯に関与していたことが発覚(黒幕?)クビになりました。
また、先の日記を記した藤原頼長に仕え能登国の預所(荘園の管理、年貢徴収などを行う職)に就任しますが、こちらも納めるべき年貢を懐に入れてしまったのでしょう、職務怠慢ということになりクビになってしまいました。
源氏の嫡流を継ぐという道も閉ざされ、それならばという気持ちで関東へ、そして埼玉へと落ちてきたのかもしれません。
なぜ嵐山町だったのか
義賢は当初群馬県に入りました。が、きっと秩父一族に利用されたのでしょう。武蔵国の最大勢力である秩父重隆と手を結び嵐山町の大蔵に館を構えることになりました。
なんで嵐山? って思いますよね
武蔵国とは何度も触れていますが、今の埼玉県と東京都の大部分。そこに川崎市・横浜市を加えた広大な範囲のことを言います。
秩父重隆は武蔵国の最大勢力ですから、二子玉でも、六本木ヒルズでも、住みたい街第1位の吉祥寺でも、好きなところに本拠を置けたかもしれません。しかし重隆は現代の感覚ではいまいち理解の出来ない嵐山町大蔵にその本拠を置きました。
その理由は道でした。嵐山町には鎌倉街道の中でも特に歴史に彩られた上ツ道が通っています。
埼玉を縦断する道は他に東山道武蔵道がありますが、この道は地形を考慮せずひたすら真っ直ぐ作られた道でしたので何かと不都合がありました。
特に厄介なのは川でした。府中から群馬を目指した場合、渡らなければならない大きな川は
多摩川、入間川、荒川、利根川
の4つです。橋などありませんから、渡るのに大変な苦労があったことは容易に想像が出来ますよね。
上ツ道は、この大きな川の浅瀬
多摩川は分倍河原、入間川は広瀬、荒川は赤浜
以上の三点を繋いだ道でした。
利根川は坂東太郎と呼ばれる関東最大の大河ですが、上ツ道を使うと
なんと渡らないで済むんですね
嵐山町は、藤岡・鎌倉間を行き来する人だけではなく、ときがわ町の慈光寺、東松山市の岩殿観音に向かう人も通らなければならない言わば交通の要衝。この重要なクロスポイントを秩父一族が抑えたということですね。
なぜ義平と激突したのか
表向きは嵐山町から南を伺う義賢勢と、それを阻止する鎌倉の義平が激突したということになっていますが、秩父一族の家督争いが発端なのではないかという見方もあるので三行にまとめておきますね。
秩父重綱は長男の重弘に家を継がせようと考えていた
しかし重弘が亡くなってしまった為、弟の重隆に家を継がせた
重弘の子、重能とその取り巻きが不満。義平を担いで激突した
シゲシゲシゲシゲ、ちょっと何言ってんのか分かんないですよね。ええ、忘れていただいて結構ですwww
さて、日記です。
藤原頼長の書いた日記を台記(たいき)と言います。
保元の乱の首謀者でもある頼長の残した日記は、その頃の摂関家の内情を知ることの出来る第一級の資料でありながら、泣いているところを天皇に注意されたり、猫に長生きしてもらいたかったり
精が漏れちゃったり!
おもしろエピソードが満載ですwww
しかし今回は
今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも影味あり。不快の後、初めてこの事あり
久安4年1月5日に書かれた義賢の登場する日の描写についてのみ軽く、あくまで軽く触れておきたいと思います。
それでは、日記の中身を見ていきますね。
今夜、義賢を臥内に入る
夜、義賢を自分の部屋に入れた、ということですね。
頼長は貴族ですから軍隊を持ちません。けれど保元の乱へ繋がる火種はすでにいくつかあったのでしょう。武士を身近に置いておく必要がありました。
義賢はやんちゃが過ぎて能登国の預所をクビになったりはしましたが、頼長にとっては大事な用心棒。自分の部屋に、それも夜、招き入れるくらいなので、いろいろな意味で良い関係は継続していたのだと思います。
ちなみに、義賢の兄、つまり頼朝のパパである義朝は、はっきりとした理由は分からないのですが、京都では出世できず、やむなく活躍の場を関東へと求めました。
頼長は義朝にもきっと声をかけているはずです。
おとなしく操を捧げていたら保元の乱も起きてなかったりしてwww
話がそれました。軽く、あくまでも軽く触れるんでした。
無礼に及ぶも
男同士でイチャイチャするときは立場が上の人が「タチ」を担当するのが作法なのだそうです。もしあなたが男性で課長だとしたら次長か部長にリードされるということですね。絶対イヤですねwww
頼長は左大臣にまで上り詰めるお人なので常にタチを担当していました。
それなのに…
あ”-------!!
後の左大臣を押し倒すなんてやんちゃが過ぎるぞ義賢!!
これについては義賢には相当な自信があったのだと考えました。その根拠は義賢のパパ為義です。
保元の乱で息子の義朝に首を切られた為義には、ホントかどうかは知りませんが
46人の息子がいました
息子だけで46人ですよ!?
パンツはく暇もないですよね!?
義賢はそんな為義の家系ですから女性経験は豊富、かなりのテクニシャンであったとしてもちっとも不思議はありません。
実際頼長も
影味あり。不快の後、初めてこの事あり
下になるのは初めてなので最初はイヤだったけど、そんなに悪くなかったかも♡
と、ぶっこいていますwww