埼玉県民の日に羽根倉橋の上で思うこと【廃藩置県】
仕事で埼玉県庁方面に赴くことがちょこちょことあるのですが、羽倉倉橋の補強工事に伴うド渋滞がひど過ぎてまいどまいど参っています。
そもそもなぜ埼玉県の県庁は「浦和」にあるのか。なぜ県庁は東西を分断する大河「荒川」の向こうに設置されることになったのか。
令和初の県民の日もまもなくですからね。良い機会なので「埼玉県が埼玉県になるまで」の流れについて簡単に振り返っておきたいと思います!
ところで「県民の日」って全都道府県にあるのかと思いきや実は設定されていない県のほうが多いらしいですね。確かに何をもって県民の日とするかは各県まちまち。名前の残った県、消えた県などの遺恨もあったはずですし、記念日と呼ぶ日を決めるのは簡単なことではなかったのかもしれません。
それでは今の埼玉県が成立するまでの経緯をざっとおさらいしますね。
明治2年、大宮県が成立するも県知事的な人が浦和に引っ越し、名称が浦和県となる。
明治4年、城下町である、川越、忍、岩槻 がそれぞれ県になる。
同年11月14日、忍県、岩槻県、浦和県が合併、名称を、県庁の置かれた岩槻の属する埼玉郡にちなみ埼玉県とする。しかし岩槻に適当な建物が無かったため、県庁はとりあえず浦和に置く。
この日を「埼玉県民の日」とした訳ですが、ええ! 荒川の西側は埼玉県には含まれておりませんですね!
ではその日、荒川の西側である川越県はどうなっていたかというと
品川県の一部を吸収、名称を入間県とする。
品川が!!
入間に!?
品川区ではなく多摩地区の一部なのですが、品川が入間になるなんて、なんだか申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになりますね。
話は逸れますが、品川駅が港区にあるのに品川駅なのは、当時ソコが品川県だったから。もう一つ言うと「北品川駅」が品川駅の南にあるのに北品川なのは、北品川駅が品川駅ではなく「品川宿」から見て北に有るからだそうですよ。
ワハハハハ、キミら所沢や川越の人、埼玉県民ちゃうやんかwww
おっと本庄市や深谷市の人たちがオレら関係ねえみたいな顔して笑ってますね。
確かに入間的な要素は微塵も感じられない県北エリアですが、本庄も深谷も余裕で入間県ですから━━━━(゚∀゚)━━━━!! 残念━━━━(゚∀゚)━━━━!!
明治6年、入間県は群馬県と合併。川越、前橋、どちらに県庁を置いてもバランスがとれないため、間を取って熊谷に県庁を置き、名称を熊谷県とする。
入間と群馬が合併するなんて品川以上にカオスに思えますが、入間(川越)と群馬(前橋)は江戸時代より密接な関係を持っていた地域。合併はごく自然な流れだったのかもしれません。
ウフフフフ、あの人たちまだ埼玉県民になっていないようですわよwww
おっと今度は幸手市や松伏町や好き好き杉ー戸の人たちがコッチを指さし笑ってますな。
幸手、松伏、好き好き杉ー戸を含む旧中葛飾郡は、埼玉県民の日と同日に印旛県、その後木更津県と合併し千葉県ですから━━━━(゚∀゚)━━━━!! 残念━━━━(゚∀゚)━━━━!!(明治8年に埼玉へ)
明治9年8月、熊谷県は解消され旧入間県エリアは埼玉県と合併、ほぼ今の埼玉県が成立する。
つまりですよ、所沢や川越、狭山、入間、朝霞4市などなどが「埼玉県」となるのは明治9年の8月。埼玉県民の日を制定するならこっちが妥当なのではないか、とまでは思いませんが(夏休み中だし)11月14日を埼玉県民としてどう捉えるかと問われれば、正直「なんだかなあ」とは思ってしまいますね。
補強工事の続く羽根倉橋の大渋滞にドはまりしながら考えます。
もし明治9年の東西合併がなかったら、こんな思いまでして荒川を渡る機会などそうは無かったんじゃあるまいか。もし県庁が川越、もしくは熊谷にあったなら、たとえ大きな工事があったとしても、いくらだって迂回ルートが選べたのではなかろーかと!
浦和にある県庁を他に移そうという運動は大きなものだけでも過去に3回勃発しています。
県を廃止し道州制を導入、なんて話もチラホラ聞こえてくるこの頃ですし、もしもう一度「県庁を移転」などという話が出たとしたら、埼玉県民の多くが納得できる「アクセスのしやすい町」を本気で検討していただきたいものですね。
秩父の人も、熊谷の人も、さいたまの人も、春日部の人も、久喜の人も、川越の人も、所沢の人もアクセスしやすい場所