昭和恐慌と埼玉県
遅ればせながら先日の金曜ロードショーにて初めて「風立ちぬ」を視聴、深い感銘を受けましたので、作品の背景より一本お送りさせていただきます!
昭和恐慌という取っ付きにくいテーマではありますが、今の私たちの暮らしに直結していく出来事ばかりですので、どうぞ最後までお付き合いくださいませっ
ご覧になった皆さまの心にそれぞれ印象に残った場面があったかと思うのですが、今回は恐らくどなたの心にも残らなかったであろういくつかの場面より、その時の埼玉県がどうなっていたのかを見ていきますね。
先ずは年代と時代背景です。冒頭、関東大震災の場面が描かれていました。関東大震災は大正12年の出来事ですので、以下のセリフより
まさか、もう二年も前のことだよ
正月に帰るからお父さんに話してあげるよ
4月中ならいつでも良いとのことでした
二郎が名古屋に入ったのは大正時代最後の年、大正15年の春であったと仮定して話を進めていきますね。
その二郎が名古屋へ向かう汽車の中から、このような光景を目の当たりにしました。
そりゃあ仕事を探しに出てくる連中だな
第一次世界大戦の「反動恐慌」という奴ですね。大戦でめちゃめちゃになったヨーロッパ各国が市場に復帰、作れば売れると過剰生産気味だった国内産業はたちまち輸出不振となり、従業員の解雇・休業・倒産が相次ぐことになりました。
昭和3~4年の浅間山大噴火
噴火による降灰で葉物野菜が壊滅的な被害を被ります。さらに皮肉なことに4年はお米が未曽有の大豊作。獲れ過ぎによる取引値の下落で農家は大きな打撃を受けることになりました(3年は二度の洪水)
世界恐慌
同じ頃、ニューヨークの株式証券取引所が大暴落、いわゆる「世界恐慌」が始まります。国内の生糸の約90%はアメリカに輸出されていましたので、生糸業者はもちろん、お蚕さま(生糸の原材料)を副業にしていた農家も現金収入の道を絶たれることになりました。
たくさん歩いていた
野宿しながら来るんだよ
二郎の見た光景は、職を失った職工や、農業をあきらめた農民が、仕事を求め都市部に向かう姿だったということですね。
まただ、今度は亀八銀行ですよ
取り付け?(預金の引き出しの殺到)
名古屋の銀行については調べませんでしたが、埼玉県を襲った「取り付け騒ぎ」は昭和2年、衆議院予算委員会で飛び出した片岡大臣のこの
失言から始まりました。
この発言のどこが失言だったかと言うと、この発言があった時点で渡辺銀行はまだフツーに営業してたんですね。
フツーに営業している銀行がすでに破綻しているなどと国会で言われたら、口座を持ってる人や企業はそりゃあびっくりですよね
東京周辺の銀行で激しい取り付け騒ぎが起こり、反動恐慌と関東大震災後の経済混乱で疲弊していた多くの銀行が休業を余儀なくされました。
特に埼玉県の公金を扱い、日本銀行の代理店にも指定されていた「中井銀行」の休業は衝撃でした。
中井銀行の休業は支店のあった、浦和・川口・草加・春日部・越谷・杉戸・行田の経済を麻痺させ、宝珠花銀行など資本の少ない銀行を廃業に追い込むまでに拡大してしまいます。
そして中井銀行の休業は延期に次ぐ延期を重ね、ついには「整理案」が提示されるに至ります。しかも、その案の中には
預金額の一割のみを保証
という恐るべき内容も含まれていたのでした。
以上が今回のテーマのざっくりとした背景になります。
金融パニックに始まる昭和初期のこの国は、農村は貧困に苦しみ、都会は失業者が溢れるという極度の社会不安の中にありました。その度合いは
川口市では荒川の土手のカエルを食べ尽くした
そう伝わるレベルの貧困と混乱でした。
この殺人的な不況から日本は、そして埼玉県は立ち上がっていくのですが、その前に昭和6年の満州事変、日中戦争、太平洋戦争、そして広島長崎があります。
その全てに触れることは出来ませんので、賃金の引き下げ・解雇等の道を選ばざるを得なかった社長さんの言葉より、川口市で勃発したモーレツな労働争議を想像していただき、後半はこの恐慌が埼玉県に何をもたらしたかを見ていくことにします。
銀行の整理統合が進む
昭和2年、大蔵省は「一県一行主義」、つまり銀行は基盤の強いものが県に一つあれば良いという案を提唱します。
この案により大正7年には本店支店合わせて100以上あった銀行が、武州銀行、第八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行に、昭和18年までには埼玉銀行、後の埼玉りそな銀行一つに統合されていきます。
埼玉県の金融パニックを象徴するエピソードに川越を舞台にしたものがありますので紹介しておきますね。
急げ! もうたくさん並んでいるぞっ
うおお〜! オレの預金〜! 全額引き出してやる〜!
いらっしゃいませお客さま、お気持ちお察し致します。
が、しかし!
当行にはこれだけの現金があります! これしきの混乱で破綻することは絶っっっ対にありませんので、どうか安心してお引き取り下さいっ
県初の普通選挙は川越市議会選挙
埼玉県における初めての「普通選挙」も昭和2年でした。
投票権はそれまでは高額納税者のみに与えられたブルジョア階級の特権でしたが、大正14年に普通選挙法が成立すると、25歳以上の男子「全て」の声が政治に届くようになり、実際この時の選挙では、定数30人の内の16人に(職人や僧侶などを含む)新人が選出されています。
女性を対象にしないという大きな欠陥はありますが、固く閉ざされていた政治の門が開かれるのはこの時代、埼玉の第一回目は川越の市議会選だったということですね。
二郎は入って何年になる
5年です
それだけあれば十分だ
川口市金山町で米の配給
昭和6年、川口市の失業者は「川口地方失業者組合」を設立、政府・県に対してはもちろん、隣接する町村にまで援助を求めるほどに追い込まれてしまうのですが、こうした動きに、お米の無償配給、衣服・日常品のバザー等の活動でいち早く対応したのが生活協同組合連合会、中心人物は後に「生協の父」と呼ばれることになるこのお方でした。
ハローワークが登録制になる
職業紹介所は昭和6年の時点で県内に8ヵ所設置されていましたが、昭和7年、川越職業紹介所が初の試みとして、失業者の「登録制度」を開始。「特に山間僻地の子女は便利になった」とあるのでミスマッチが減ったのでしょう、ネットワーク化による効率化が進められていきました。
なんで川越ばっかりなん?
川越市がやたらグイグイ来てるのは、関東大震災があった大正12年の時点で「市」になっていたのは川越市のみ! という要素が大きいのかもしれませんね。
国道17号線の改修
失業者に現金収入を与えるための土木工事があちこちで企画されました。
代表的な工事は国道17号線の「蕨宿から浦和の六辻」までの区間ですね。
この場所が選ばれたのは失業者の溢れる川口市が近いということがイチバンの理由であったと思いますが、この辺りの中山道は道筋がうねうねしている為、自動車の普及にともない「直線化」が望まれていたのもあったんですね。
大きな工事にしないと失業者を救いきれない
そんな経緯から「ムダに幅広に」設計された国道17号です。困窮のどん底にあった川口民を救済するために計画されたということは覚えておきたいと思います。
他、川口市内の荒川の土手、国道17号であれば吹上ー熊谷間(行田市も中井銀行)狭山湖、飯能の倉掛峠なども、この時の「匡救事業(きょうきゅうじぎょう」により整備されました。
事業の項目には「桑畑の整理」も含まれています。お蚕さまに支えられた埼玉の風景が、この不況をきっかけに変わり始めたという見方も出来るのかもしれませんね。
児童虐待防止法の成立
羽生市民100人に聞きました! この不況をどう乗り越えるおつもりですか、的なアンケートがあるのでご覧いただきましょうっ
恐慌が農村をいかにズタズタに引き裂いていたか、ということなのですが、きっと目に余るところまでいってしまったのでしょうね、弱者である子供を保護する法律もこの時に形になりました。
二郎の上司の発したこのセリフの輪郭が、改めて際立つ話でもありますね。
埼玉県、うどん県になる
稲作と養蚕には頼れないことを知った埼玉県は、農家の転業・副業を推し進めるため「県立副業指導所(昭和8年浦和)」を新設、技術指導を行うと共に、上野松坂屋などで「埼玉県物産観光宣伝会」を開催、積極的に新規販売ルートの開拓等に取り組みました。
こうしたバックアップを受け大きな伸びを示した商品のひとつが「小麦」でした。その代表的な品種が
小麦埼玉27号
小麦埼玉27号は大正14年の指数を100とすると、昭和9年には142 。
昭和13年には群馬を筆頭として、東京、静岡、神奈川、三重、千葉など合計18都県プラス台湾で栽培され、全国の小麦作付きの1割を占めるまでに成長します。
この小麦が今の「うどん消費量全国2位」や、所沢市でよく聞く「嫁はうどんが打てなきゃダメ」に繋がっていくと思うのですが、ブログが長くなりすぎておりますので、恐慌の嵐の中、米麦の品種改良に心血を注いだ方の名前のみを紹介し、今回のテーマを締めくくりたいと思います。
名前からもしピンとくるものがあったとしたら、その方は間違いなくガチの埼玉クラスタさんですね。
シベリアラムネ味か、妙なもの食うな
シベリアをオチに使おうと思って岩槻まで行ったんだけど、本文もイラストもいつもの倍で疲れちゃったわ。オチはなしね