学校では教えてくれない日高市女影【日高市】
偽りの◯◯、◯◯の真実、ここまで分かった◯◯の秘密など。その書籍がいわゆるトンデモかどうかはある程度タイトルで判断出来る、というのは概ねボクも同意なのですが、地域史に限っては「書かれた年代」が何よりも重要な気がして仕方がないんですね。
その理由は「タブー」です。
非差別部落や人柱など、その地域の価値や評判を下げかねないテーマについては、感覚ですけど昭和40年代前半を境に書かれなくなっているような気がします。
という訳で今回は、日高市女影の由来について書かれた
昭和30年代の書籍を
数冊入手しましたので、日高市の方には大変申し訳ないのですが
歴史の闇に葬り去られた衝撃の真実を!
白昼の元に晒してやりたいと思います。
太平記にも登場する、すなわち「女の影」の正体、とくとご覧に入れましょうぞっ

時は戦国の世、このあたりに雷山城と呼ばれる半山城があった
この城には登喜という、それは麗しい姫がいた。登喜は幼い頃から馬を愛し、十五のときには家中にもまれな馬術の達人となっていた。そして父の愛馬「音菊」をもらいうけると、毎日近くの原に美しい馬上姿を現していた
しかし登喜が十九になった秋、戦国の風雲は急を告げ、敵の大軍がこの城を幾重にも包囲し攻め立ててきた
城主はもはやこれまでと、妻子や家臣たちと最後の別れの宴を張り、自害して果てた

登喜は父の遺言により間道から抜け出し千丈ヶ池の畔まできた
後ろに追っ手の気配を感じた登喜は、そばにあった松の木によじ登り、葉の陰に身を隠した
しかし我が後ろを追ってきたのは音菊だった。音菊は姫の香りをしたってここまで走ってきたのだ
音菊は登喜の姿を探した。その時だった
音菊は水面に映った
登喜の影を見ると!

本当の登喜だと思ったのであろう、大きな水音をたてザブンと池に飛び込んでしまった
登喜は愛馬を助けようと松の木を滑り降り池に入ったが、ついに登喜も音菊も水中深く没したままとなり、再びその姿を見ることは出来なかった
間もなく城は落ちたが、その後、池からは大蛇が現れたり、夜ともなれば毎晩のように怪火が燃えたり馬のいななく声が聞こえたりしたので、村人は池の畔に馬頭観音と弁財天をまつり、その冥福をねんごろに祈ったのである
以来このあたりを女影と呼ぶようになった。

いやあ、いかにも戦国ファンが好きそうな話ですよねえwww
けれど、この話は「なさそう」です。
昭和31年のものに記載があったのですが、著者の方も地元の古老たちにヒアリングをしたところ

との回答しか得られていないようなので、女影の地名をもとに誰かが創作し、時代の中でしだいに洗練されていったと考えるのが妥当のような気がします。
また戦国ファンのロマンを打ち砕くような話をしてしまうと、鎌倉時代に書かれた吾妻鏡の承久3年6月10日のページに
武蔵国女影四郎、宇治川の合戦にて討死
女影を名乗る方が亡くなったとの記述があるんですね。
つまり平安時代の末にはすでに「女影」の地名が成立していたと考えられるので、悲話うんぬんではなく、時代設定から少し安易な創作であったと言わざるを得ないのかもしれません。
以上、次のエピソードとの対比の意味を込めて紹介させていただきました。タブーはさておき、一つの出来事が書き手の都合によりここまで飛躍する、ということを覚えておいて下さいませ。

昔この村にせんという娘がいて馬をたいそう可愛がっておった。馬もことのほかせんに懐いてせんの言うことなら何でも言うことを聞いた
ところが馬はいつしかせんに恋心を抱くようになったらしく、せんの姿が見えないと繋いだ綱を振り切ろうと狂い回る
せんが風呂に入れば裏の窓からとろけるような目で覗き込む
親たちも手の付けようがなく、せんもいくら子飼いとはいえ気味が悪くてたまらなくなった

ある日のこと、草刈りに出たせんの後をつけて来た馬は、人影のないススキ原に来ると興奮した様子でせんを抱え込もうとした
驚いたせんは、かたわらの松林に駆け込み必死で逃げ回っているうちに、とうとうこの池のほとりに出た
前には深い泥沼、後ろには執念深く追ってくるひづめの音。追い込まれたせんは池の上に長く伸びた一本の松に登り息を殺した
遅れて飛び出した馬は、不意に見失ったせんの姿を血走る眼できょろきょろと探した。その時だった、馬は水面に映る
せんの影を見た!

馬は一声高くいななくと、ざんぶと池に飛び込んだ。池は深く底は泥沼だったので、馬はもがきながら哀れ池の底に消えていった
以来このあたりを女影と呼ぶようになった。
もう一本いきます! 日高市にお住まいの方、本当にごめんなさいっ

あるときのこと、もう夕暮れも近くなって仕事も終わり、ほっとしてせんが
馬小屋の前でしょんべん
をしていたところ、これを馬に見られてしまった

馬に見られたぐらいのこと、せんはちっとも気にしなかったが、馬の方はそうはいかなかったようで、とうとう興奮してせんに迫ってきた
せんは逃げた、そして池の畔まで来ると松の木に登った
池に映るせんの影!

いかがだったでしょうか、歴史の闇に葬り去られた女影の真実www
歴史なんてこんなもんだと思うんですよね。真実はいつもひとつ! と言われればまあ確かにその通りなんですけど、その真実が
お姫様から野しょんべんの間にある
と考えると、真実を欲すること自体がナンセンスなのかなあという気持ちにもなってしまいます。

それでは最後に「新編武蔵風土記稿」の中にある女影のページに触れておきますね。
武蔵風土記稿とは江戸幕府が20年の月日を費やし作成した地域の歴史書です。タブーの基準が現代とはまるで異なるため、なんだかんだ信憑性のイチバン高い資料になっているかもしれません。

村内二千丈ヶ池ト云池アリテ、往古セント云ヒシ女此池二身ヲ投テ死セシガ、ソノ後彼女ノ影、時トシテ池中ニアラハレシカバ、土人コレヲ女影ト呼ビシヨリ村名モ起リシト
武蔵風土記稿は、お姫さま説でもおしっこ説でもない「せんの幽霊説」を採用しているんですね。真実はやはり闇の中ということですかね。

