彰義隊と豊岡【入間市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんですっ
今回は入間市豊岡にあるコチラの石碑について詳しく知っている、というか当事者の方ですね。殺っちゃった側の方に古い書籍の中で出会ってしまいましたので、当時の事をお伺したいと思います。
それでは早速ご紹介させて頂きます! 入間市にお住まいの万右衛門さんですっ

事件のあった当時、万右衛門さんは22歳であったと伺いました。ということはこの書籍は昭和10年ですから、えーっと…
87になったな
ですよね、お若いですね!
耳は遠くなったけどな、あの時のことは忘れねえな
慶応4年、3月29日のことでしたね
扇町屋の「藤間屋」という旅館に、一見幕府方の武士がどかどかと13人も乗り込んできてな、扇町屋の名主、栗原良平さんと、大総代の長谷部さん、増田さんの3人が呼びつけられたんだ
そしたらな、首領らしい男がな
我々は彰義隊の一派だ。この度、徳川再興のため旗揚げすることになったので、軍用金千両、明日中に調達して欲しい

無茶な要求を申し伝えてきてな
三人は「何分額が額なんで相談の上で…」と、一先ず藤間屋を後にしたんだ
千両とは、またとんでもない額ですね
おとなしく千両出すべか、という意見も出るには出たんだよ。だけんど千両は大金、おいそれと出るもんじゃあねえ。結局、こういうことをハイハイ聞いていたら癖になる、一つ脅かして追い出しちまうべということになったんだな

慶応4年の3月というと、ちょうど江戸を攻める官軍が埼玉を通過した頃ですね
そうだ。熊谷だか大宮だかに到着した官軍が、村高100石につきいくら金出せ、米出せ、人足出せと言ってきたんで、百姓もみな気が立ってたんだいな。で、それぞれの村の男衆に、槍でも袖搦みでもなんでもいいから「えもの」を持って明日の朝、扇町屋に集合しろということになったんだ
袖搦み(そでがらみ)とはどんなものですか?
袖がらみってのはコレだな

そしたらな、翌朝の扇町屋の騒ぎったら、大変なことになってしまってな
大変な騒ぎというと具体的にはどんな感じだったのでしょう
1500人も集まっちまったんだよwww
オレも親父の代わりに、わらじ脚絆、火事の刺子半纏、晒し布を四つ畳にして後ろ縛りにしてな、竹槍を小脇に挟んで現場にいた訳だけど、シャンと立った姿はもうね、我ながら勇ましいもんだったなwww

とにかくこんな出立ちの男衆がざっと1500人も集まったもんだから、扇町屋はひっくり返るような騒ぎになっちまってな
まずこれで威嚇も良し
長谷部・増田の総代と、名主らの五人で藤間屋に押しかけ奴らと談判をした。すると、初めの勢いはどこへやらだ

川越まで送ってくれという話になったんで、総代ら五人が付き添いこの辺りまで来たんだ。その時だ
後に付いていたオレたち群衆の中に笹井村(狭山市)の連中がいてな、大砲の代わりだって花火筒を持ってきてたんだ。その花火筒をズドンとやりやがったもんだから、そうでなくても怖気付いていた奴らは驚いてな、われ先にと逃げ出した

それ逃げるぞ!
誰かが叫んだと思うと、もうひっちゃかめっちゃかだわ。後ろから斬る、突く、ぶんのめす
もっとも腕利きらしい三、四人は踏み止まって刀を抜き渡り合ったが、何しろ1500人相手に13人だからどうしようもねえよ。瞬く間に「なます斬り」に切り刻まれてしまってな
あの、なます斬りというのはどんな…
なんだおねえちゃん、なます知らねえのか。なますってのは

オレも逃げる奴の一人を、後ろからグサッと例の竹槍でブッ刺した。その刹那、振り向いて睨みつけやがった目の凄さったら、今でも目の前に見えるようだよ
竹槍でブッ刺した…
竹槍でブッ刺したwww
ただ、一人だけはよほど足が早かったんだんべな。取り逃がしちまったな
えーとあの、ということは、一人取り逃がしたので、12名の自称彰義隊隊士をこの場で討ち取ったということでよろしいですか?
んだな。
で、12名のご遺体はどうなさったんでしょうか…
死骸は大きな穴をひとつ掘って埋めてやったな
ここに?
ここに。

