おらが町にも真田丸【川島町】
ボクがまだ(川島町を)かけ出しだった頃の話です。
たまたま通りかかった交差点の名前に
難読地名クイズにも出題させていただいた、えっと、答え言っちゃいますね
しもむじな
狢とはタヌキやアナグマのことを言うのだそうです。
まあタヌキくらいなら今もたくさん居るでしょうし、タヌキを村の名前にしてしまうセンスはさて置き、素直に「タヌキが居たんだなあ」と受け取りました。
そのとなりに
曲師(まげし)
何かを曲げる職業の人たちが住んでいたのでしょうね。ただただフツーにそう感じました。
そして曲師のとなりに
上大屋敷
大きなお屋敷があったのでしょう。そう受け取る以外にどう受け取れというのでしょうか。
さらに
釘無橋
昔の景色を連想させる地名が並びますね。なるほどなるほど。お屋敷に架かる橋には釘が使われていなかったということですね。
いつの時代なのかまでは想像出来ませんが、この場所に大きなお屋敷があり、曲師と呼ばれる技能集団の存在があり、タヌキがいた。
地名からくる印象のみですが、けっこう長い間、そんな景色をおぼろげながらに見ていました。
そして景色はこの地名でさらに輪郭を濃くし、ボクの中で決定的なものとなります。
出丸
出丸と言えば皆さんもご存じのことでしょう
でっててでっててででれっれ♪ でってってでってってででれれ~れ~れ~♪
荘厳ながらもどこかユーモラスなテーマ曲が瞬時に脳裏に甦りますよね。
真田丸とは、大阪城唯一の弱点である南側の台地に真田信繁が築いた超攻撃的な出丸であり要塞です。
その真田丸が川島町にもあった!!
この辺りからでした。これまでは地名からくる印象のみでしたが、出丸があるということは戦争があったということ。そのような視点を持ち、いろいろと調べ始めました。
すると!
なんなんすかこの地形!?
すぐさまチャリンコで現地調査をしてきました。
何かの痕跡であるのは間違いなさそうです。
これが真田丸の跡か!!
いえいえ、円の淵に水路がありますよね。これは「お堀」の痕跡だと思います。となれば、先ほどの曲師は
曲輪(くるわ)!
輪という文字を誰かが「師」と書き間違えた。ああ、なんて鋭い推理なんだ自分よ
と、すれば狢は
怪談、狢!
有名な怪談ですね。あらすじを簡単に説明するとこうです。
お堀の端で女がうずくまりしくしくと泣いていた
通りかかった男、どうした、気分でも悪いのかい声をかけた
女が振り向くと、その顔は
のっぺらぼうだった!
男は逃げ出し、蕎麦売りの屋台に駆け込み女の話をした
すると蕎麦屋の男…
その女はもしかして…
こんな顔だったか~い
中学校の英語の教科書がNEW PRINCEだった方は覚えているかもしれませんね。MUJINAですよ、むじ~なwww
狢には「お堀」が付き物です。つまり狢は堀を意味し、不思議な曲線は「城郭」を取り囲む堀であり、その城郭を守るために出丸が築かれた。
どんなにググっても、この辺りに著名な戦国武将がいたとか、古戦場があったとか、交通の要衝だったとか、そんな記録は一切出てこないのですが、その点については、この史実に気が付いたのが、このオレ様だけだけだから、そういうことにして気持ち良〜〜く腹落ちですwww
川島町にも真田丸があるんだヨ
真田丸に世間が盛り上がっていた2016年は、大河の話題になるたびに川島町出丸の話をしてましたっけねえ。
そんなある日のこと。
仕事で川島町役場に立ち寄った際、ふと目にした本棚に興味深い一冊を発見。中身を確認する機会に恵まれました。
思ってたのとぜんぜん違うやんけ!!
正解だったのは大屋敷くらいで、真田丸などこれっぽっちも存在はしていませんでした。
そもそも「川島」という地名ですが、川島町は荒川沿いの低地に位置し、かつては蛇行する荒川に、市野川、都幾川、越辺川、入間川などが流入する、大雨の時には水浸しになることも多い氾濫地帯でした。
川が氾濫した際、水に沈まず陸地であり続けた場所に「島」の文字が当てられたのでしょう。それで川島。深谷市の血洗島も同じ理由だったと思います。
唯一正解した大屋敷は、この地に堤防を築くことになった折、指揮を取った伊奈忠次が陣屋を置いた場所とのことでした。
釘無の「クギ」には、少し高いところという意味があるそうです。久喜市やさいたま市の中釘も同様のようですね。川島町の釘無には少しも高いところが無いという意味が込められています。
で、ボクがチャリンコで調査、そして「堀」であると判断した曲線ですが、あれは全て
川の流れていた跡でした
川が流れると、そこに土砂が堆積するので土地が少し高くなるんですね。高くなったところには人が住みますので、今もこのような形で住宅が並んでいるという訳です。
氾濫地域に暮らした人々が、どのような苦労と工夫をしてきたのか。川島町だけではなく、加須市や栗橋町、志木市などにもその痕跡が残っているようなので、いつかブログで紹介したいなと思います。
余談になりますが、出丸には、ちょっとおもしろい由来がありました。
出丸はもともとは伊豆丸と書き「いずまる」と読んでいました。
ところが1637年、江戸幕府を本気で震撼させる
島原の乱が勃発!!
川島町と島原の乱カンケーねえだろ。 思いますよねwww
歴史にifはありませんが、もし島原の乱が無かったら出丸は今も伊豆丸だった可能性があるので、ちょっとだけ丁寧に説明しておきますね。
1637年、今の長崎県で島原の乱が勃発
江戸幕府は板倉と石谷を派遣、九州の諸大名にも鎮圧と加勢を命じる
一揆勢は原城に立てこもり抗戦、戦闘は長期化した
板倉は戦死、石谷も重傷を負った。そのため
松平信綱が総大将となった
野火止用水を掘削、新座市やその周辺を人が住めて作物が取れる場所に変えてくれた人ですね。この信綱の官職が
伊豆守(いずのかみ)でした
その信綱が島原の乱を鎮圧。勲功として1639年
川越藩の藩主としてこの地に着任しました
さあ大変です、伊豆守と伊豆丸がかぶってしまいましたwww
藩主様の名とかぶるのはマズいと、伊豆丸村は、名称を「出丸村」と改め「いでまる」と呼ぶようになりました。近代になり「でまる」と読むようになりましたが、川島町を歩いていると今も「いでまる」という表記に出会うことがあったりします。
今回のブログを書くにあたり、例の一冊をもう一度確認しておこうと、川島町役場に赴きました。
ところが見当たらない。
まあ、もうずいぶん昔の話ですからね。これはしゃあないですね。
それならばと、近くの図書館で地名事典的なものの川島町の項を、念のため2冊分コピってきました。
ところが、自分の思い違いなのか、曲師と狢の項だけ、役場で読んだ本とはまるで違う解説でした。
一冊には、曲師には曲げ物を作る人が住んでいた、狢にはムジナが住んでいたとあります。
ぜんぜん違うやんけ!
役場でめっちゃ思ったんですよ? 大屋敷しか合ってないやんけ自分に憤ったんですよ?
ボクの記憶が確かならば、曲師は川が曲がりくねっていたところ。狢は川が向きを変えたところ。いずれも川に関係する地名だったはず。
いや、うろ覚えでブログを発信するのはダメですね。
ということで、役場のとなりにある川島町の図書館に伺って参りました。役場に無くても図書館なら間違いなくあるはずですものね。
ところが、コロナのお陰で滞在時間は15分まで
それ以前に、所沢市在住の自分は図書館に踏み入ることすらも叶いませんでした。
何の「表」なんだっけなあ。
拝読いたしました。川島町には「陣屋」と呼ばれる松本家がありました。明治時代までは、「医者んち」とも言われたそうですが、要吉こと周南先生は医業とともに寺子屋を営み近在の青年に学問も教えていたようです。日興証券を起こした遠山なども学んだようです。要吉の長男三吉は福沢の門下生で県議も務めたようですが、化粧品会社を興しましたが、その晩年が不明です。栄枯盛衰世の常ながら、屋敷周りの堀のみが残りますが、屋敷跡に残る道路標は貴重な文化財かと。
「表」の屋号は、「本家」を表します。オモはオモヤのオモ同様「母」テは「家」。地名「表」も、屋号が地名になったかと。その例に、北本市にカネツケメンあり。同地には鉄作り(カネツクリ)集団、菊池氏が住んだ。語末部メンは「村」を意味する。