美尾屋十郎と憎いあんちきしょう【川島町】
早速ですが今回は、川島町の広徳寺より、この地を開発、そしてこの地より平家物語の世界に参じていった
美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)
について見ていきたいと思います!

海のない県は8つもあるのに、埼玉県だけが「海なし県」とバカにされるきっかけを作りやがったあの野郎に一人で立ち向かった美尾谷十郎とはどんな男だったのか。広徳寺の案内板を忠実に追っていきますので、どうぞ! 最後までお付き合いくださいませっ
美尾の屋十郎しころびき
メジャーなエピソードなのでご存じの方も多いと思うのですが、平家物語ですので今回もこの方に詳しく解説をお願いしたいと思いますっ

では参る(べべんっ)
あまりのおもしろさに感にたへずやおもひけむ船の中より年の齢五十ばかりなる男〜
冒頭がいきなり50のおっさん… すいません琵琶さん、現代風の言葉で前置きから話をしていただいてもよろしいですか?

場面は源平合戦ファイナルステージの2戦目
屋島の戦いじゃ
2戦目の屋島は平家にとってとても重要な戦いであった
贔屓のプロ野球チームのある者なら分かるであろうが、初戦と2戦目を落としてしまったら、3戦目のその日は朝から3タテの恐怖にガクブルじゃな? つまり屋島は、初戦を落とした平家にとって負ければ後がない背水の戦いだったのじゃ
ところが天才義経、陸から現る(べべんっ)
源氏は海から攻めて来る、平家はそう思っていたのじゃな。ところが義経率いる源氏の軍は陸路を使い背後から襲い掛かってきた
あわてた平家の軍は船に飛び乗り海へと逃げた。その結果、屋島の戦いといえばこの絵、よく見るこちらの構図になったのじゃ

さて、ここからが本題じゃ
日が暮れて休戦状態になると平家の船に一人の女性が現れ
この扇を射てみよ
身振り手振りで無茶な挑発をしてきたのじゃ
この場面で九郎義経
ここは重忠しかおらぬであろう
埼玉県民である畠山重忠をチラ見する
しかし重忠、もし失敗すれば末代までの恥。近くにいたであろう配下の者を見渡す

そして栃木県民である那須十郎に振るwww
それを受けた那須十郎、いやいやいやいや、お気持ちは嬉しいのですが自分ちょっと怪我をしてるんで、と、弟の
那須与一に丸投げ
ここに! 日本史に燦然と輝く、あの「扇の的」の名場面が誕生するというわけじゃ(べべべんっ)
広徳寺の案内板はこの場面から。それでは参るぞよ!
与一が扇を射落とす
それを見た平家の船は大喝采、50歳くらいのおっさんが浮かれて踊りだす
伊勢三郎義盛、与一の後ろに歩み寄り
判官(義経)殿のお言葉だ、あれも射殺せ、言えば

平家の船は静まり返り、源氏の兵はエビラを叩いてどよめいた
ふざけんじゃねえ!
平家の兵が、一人は弓を持って、一人は盾を持って、一人は長刀を持って渚にあがれば
九郎義経
強い馬に乗った若者よ! やつらを蹴散らせい! 迎撃の指示をする

意を受け立ち上がるのは
武蔵国住人、美尾屋四郎!
同じく藤七!
同じく十郎!
上野国の住人、壬生の四郎!
信濃国の住人、木曽の中次!
あれ? 5人いますね。ブログの冒頭で「海なし県と呼ばれるきっかけを作ったあの野郎に一人で立ち向かった」と書いた記憶があるのですが

5人は十郎を先頭に突撃!!
次の瞬間! 大きな矢を持った武者が十郎の馬の左を矢筈が隠れるほどに射込んだ

十郎の馬は屏風を倒すように倒れたwww

十郎は馬を諦め立ち上がり刀を抜いた、が!
ヤバそうな奴が大長刀を振り回しながら向かってきたので、太刀ではかなわんと迷わず逃げた
ヤベーのは十郎を長刀で切り倒すのかと思いきや、長刀を左わきに挟み、右手を伸ばし、十郎のカブトの「しころ」をつかもうとした
十郎は3度振り切ったが4度目についにつかまり、引き合いになった
そして…

鉢付の板から「しころ」が切れたので十郎は逃れることが出来た

十郎以外の4騎は馬を惜しんで駆け付けようともせず、ただ見物していたwww

ヤベーのは追ってくることはなく、ちぎり取った「しころ」を長刀の先に突き刺し、高く突き上げ、大音量でこう叫んだ
聞いたことがあるであろう! そして今はその目で見たまえ! 我こそは京都の子供までもが噂する上総(かずさ)の
悪七兵衛景清である(べべべべんっ)

広徳寺の案内板はここまでですね。琵琶さん、本日はありがとうございました。また次もよろしくお願いしますね

悪七兵衛景清は「あくしちびょうえかげきよ」と読みます。彼は藤原忠清の子なので藤原景清と書くのが正解のような気もするのですが、平家に仕えていたせいなのか平景清と書かれることもあり少しややこしいです。
ちなみに悪七兵衛の「悪」は悪源太義平の時にも言いましたが「悪い」ではなく「強い」という意味です。
ただ! あえてこの野郎と呼ばせていただきますが、この野郎… 口が悪いんですよ
海のない県は全国に8つあります。にもかかわらず、埼玉県だけが
海なし県海なし県やーいやーいwww
バカにされるのは、たぶんこの野郎のせいなんですよ。
源平合戦ファイナルステージの最終戦、壇ノ浦の戦いに挑む場面で平家の大将 平知盛はこのようなゲキを飛ばしました。
戦いは今日が最後だ。どんな名将でも運が尽きれば力及ばん。されどみな、武士としての名誉を惜しめ。今こそ命を捨てるべき時だ。源氏の者どもに弱気を見せるな
諸行無常というこの世の大原則を受け入れ、それでもなお全力で生きていこうという、胸に染みるとてもいいセリフだと思います。
ここに出しゃばってくるのが景清なんですね。景清も知盛の号令に奮い立ったのでしょう。こんなアホなことを言いやがりました。

埼玉県民など馬の上では口は聞くが、海の上では木に登った魚も同然よwww
現代人は古典も本も読まなくなってしまいましたが、昭和の頃までは多くの人が平家物語に触れていたのでしょう。話は逸れますが切符を買わずに電車に乗ることを「薩摩守」と言っていた時代があるそうです。
一の谷の戦いで、やはり埼玉県民に討たれた平家の武将に平忠度という方がいます。知らなければ絶対に読めないと思いますが忠度と書いて「ただのり」と読みます。つまりはこうです

こんなん今じゃまったく通じないですよね!?
忠度が薩摩守だったなんて誰も知らないですもんね。けれど「薩摩守」で笑いがとれた時代が確かにあった。その中で埼玉県民など海の上では木に登った魚という共通認識が出来上がっていった
景清!!跳んで埼玉の起源はお前だああああ!!
いじってくれてありがとう、悪七兵衛景清www
最後に、美尾屋十郎について分かっていることをいくつか紹介し終わりにしたいと思います。
頼朝は義経を暗殺するために土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を京都に派遣しましたね。この時のことを吾妻鏡は「水尾屋十郎以下六十余騎の軍士」、九条兼実は「頼朝の郎党の中、児玉党三十騎ばかり」と書いています。
以上のことから十郎が、土佐坊に次ぐナンバー2であったこと、また、児玉党と行動を共にしていたことが読み取れます。ただ、美尾屋十郎について分かるのはこれくらいで、ルーツがこうとか、晩年はこうだったとか、人となりを今に伝えるエピソードはまるで残されていません。
特に分からないのがこの立派な大御堂です。北条政子が十郎の菩提を弔うために建立したと伝えられますが、政子ほどの立場の人が、雑兵と言ってもよいような美尾屋のためになぜお堂を建てる? これについては分からな過ぎて妄想をすることすら出来ませんでした。

