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狭服山の六孫王【鴻巣市】
どもこんにちは、ゴケゴーちゃんです
早速ですが今回は、知らない人はまったく知らない。知っている人も
武士としての鍛錬が出来てなかった人ね
まったく良い印象のない、源頼朝を産んだ清和源氏の祖
源経基
について見ていきます! 経基は本当にダメな男だったのか、彼が埼玉に残した足跡から考えていきますね

鴻巣高校の裏に源経基が館を構えたと伝わる森があります。その森の奥に
六孫王経基城跡の碑
六孫王とは
清和天皇の6番目の孫の子
という意味なのですが
この時点で若干ダメな感じはしますよねwww

ただ当時はどエライ肩書だったのでしょう
経基はこの肩書きを引っ提げ、武蔵国の副知事、次官に当たる介として赴任してきました
介といっても守が来ていないっぽいので実質トップですね

この時一緒にやってきたのが
…
YouTube始めました
埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地①】

どもこんにちは、ゴケゴーちゃんでっす
新シリーズ、埼玉県史を考えるヒント。第一回目はココ、東青梅よりスタートさせていただきます!
埼玉県史を、と言ったそばから東青梅? と思われるかもしれませんが、例えば埼玉県と千葉県群馬県の間には大きな川が流れていますが、埼玉県と東京都は地続きの元は同じ武蔵国、文化もさほど変わりませんので、分ける意味はないと思うんですね
そして、埼玉県西部。所沢や川越や富士見や新座などの歴史は、極端な話をしてしまうと青梅から始まっていると言っても過言ではありません

道がスプレー状に広がっていますね
ずうっとずうっと昔、今は青梅の南側を流れている多摩川はこの辺りから、時にはこっちへ、時にはこっちへ、自由に流れていました
その時代に多摩川は、奥多摩の山々から大量の土砂、小石ですね、礫と言います。大量の礫を吐き出し、広大な台地を作りました。こういう地形を何というでしょうか、扇状地、さっすがタモリさん、でお馴染みの扇状地ですね。武蔵野台地です

今回は、この武蔵野台地が埼玉県の歴史にどのように影響したのかを見ていきます
とは言え、武蔵野台地は大きい!
青梅を起点に、扇頂と言いますが、青梅を扇頂とする武蔵野台地がどこまで広がっているかというと
東京の上野に来ました
アメ横は低い場所にあります。武蔵野台地の下です、下町です。が、上野駅や上野動物園は高い位置、山の手にあります。つまりここが武蔵野台地の東側の一つの端。大きい! とてもじゃありませんが全部は紹介できませんので、今回は武蔵野台地の北側、青梅から川越市役所に向かって延びている川越台地を見ていきます。とても興味深い形をしていますので、どうぞ最後までお付き合い下さいませ

国道16号の宮寺の信号に来ました。宮寺の信号は川越台地のここですね、一段低い位置にあります。往路はここから上がったり下がったりしながら川越を目指していきますが、復路は右の道、重要な意味を持つ古い道です、この道を通ってこの場所に戻って来たいと思います
小谷田の信号に来ました。秩父の山並みが美しい、台地の上にいるからこその眺望ですね。それはともかく、元々の古い道はここを右、台地から降りることなく扇町屋へ向かうのですが、16号はどういうわけかここで台地を降ります
16号がなぜこのルートを通るのか。はっきりとした理由は分からないのですが、上を通る訳にはいかない特殊な事情もあった、ような気もしますので、ここは後半触れますね
台地を降り切りました。霞川が流れています。実は霞川は東青梅の駅からずっと一緒です
16号はおかしな斜度で再び台地を登ります。加治丘陵です。武蔵野台地と加治丘陵はもともとは一つの台地だったようですが、加治丘陵側の隆起が大きかったのと、霞川、東青梅から流れていることからも分かるように太古の時代の多摩川ですね。古多摩川の別名を持つ霞川が削ったために、このようなエグい谷になりました。この辺りを高倉と言います、高倉という地名を覚えておいて下さい
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埼玉県初の信号機はどこだ【さいたま市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は、埼玉県における一番最初に出来た信号機はどこだったのか、そしてなぜその場所だったのかを深掘りしていきたいと思います。それではいってみましょうっ

答えから言ってしまうと
与野です
与野の駅前通りと国道17号の交わる交差点、西友のある交差点の信号機が、埼玉県における信号機の初号機です
なぜ浦和大宮川越よりも先なんだ?
という疑問が湧くのは当然ですよね
これについては明確な理由がありそうなので、与野さんにご説明頂きたいと思います
(うい)まあ簡単に言ってしまうとだな、それはわが町与野が、自動車の街だからだ
自動車販売会社の始まりは昭和10年の関東モータースだ。今の国道17号が開通したばかりだった、主にシボレーの乗用車とトラックを扱っていたな
次に昭和12年の埼玉トヨダ、トヨタじゃねえぞ、ダだぞ
続いて昭和14年のダットサントラック、昭和18年埼玉日産自動車、21年埼玉トヨタ、23年埼玉日産モーター、埼玉三菱コルト、今の関東マツダ
埼玉スバルの前身となる埼玉ラビットというのもあったな、スクーター屋だ
もちろんこれは極々一部だ、自動車販売店が集まれば、板金屋、保険屋、看板屋、内燃機屋、部品商なども集まる
トラックの荷台の幌を作る、シート屋なんてのもあった

トラックの幌というのは業種によって仕様が様々で、例えばココに穴を開けてくれとか、自動車販売店では対応出来ないことも多かったのだ
詳しいな…
…
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粕壁中学校と県北勢の野望【埼玉三國志⑦】
当初より私は、熊谷・浦和・川越、3ヵ所への中学校設置案を推していたが、県の提案は1校であり、県の財政からいってもこれを3校に改めさせるのは困難である考え2校案に賛成した。しかし県内の入学志望者の全てを熊谷と浦和の2校に収容することなど出来るであろうか。私は昨年の県会で改めて川越と粕壁への設置を提案し、そしてその提案は、ここにいる県議の皆さまの満場一致を持って決議されたはずであるのに、それを今更
廃棄するとはどういうことか!

どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は「第65話 浦和民には手を出すな! 後編」で取り上げた
旧制浦和高校、及び熊谷高校の
設置をめぐる争いの前哨戦である「中学校設置」についての問題から、あれよあれよと県庁所在地争奪戦へと繋がっていく、私も第65話を書いた時はまったく知らなかったエピソードをお送りさせていただきます。
特に川越高校・春日部高校の在校生・卒業生の皆さま。皆さまが今日も立派に学業、そしてお仕事に励むことが出来ているのは、明治30年のこのわちゃわちゃがあったから
授業で教わっているかもしれませんが、まさか県庁所在地には触れてないやろ思いますので、どうぞ! 最後までお付き合い下さいませっ

すったもんだの末、浦和と熊谷、2校の設置は決定しましたが、県全域にわたる教育の普及は二校だけでは到底足りるものではありませんでした。しかし頻繁に見舞われる水害により県の財政は甚だ困難。3校目4校目などとんでもないという意見もまだまだ多くありました。
浦和熊谷の開校もまだであり学校がどれほどの実績をあげるかも分からない。2校の増設は無謀である!
治水、堤防、道路等のために多大の支出を要し、しかもこれらの事業はようやくそのスタートラインに立ったばかりだ。教育機関の増設は県民の意思に反し、そして時期尚早である!
来年2月に県議員の選挙がある。所詮は選挙区に対するお土産案なのであろう

選挙に当選するためにやってんだろうと言うことですね。粕谷がこのような容赦のない侮辱を浴びせかけられた背景には「党派」の争いがありました。前回までは
元熊谷県の県北派
旧埼玉県の県南派…
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浦和の哀願書【埼玉三國志⑥】
以上が加藤が急飛脚で送ってきた書状の全てだ
県庁の熊谷移転はもう内定しているということですか!?
あとは内務大臣山縣有朋の決裁を仰ぐのみ、ここにはそう書いてあるな。いずれにせよ事態は急だ。オレは東京にいる加藤に会って事の進捗を確認してくる。皆は県議への働きかけと、玉蔵院だ、町内の有志に玉蔵院に集まるよう段取りをしてくれ
これは浦和の存続、いや
浦和滅亡の危機だ
皆も腹を括って事に当たって欲しい

県知事を抱きこみ挑んできた熊谷の前に、浦和はついに崖っぷちに追い込まれることになりました。
今回はその顛末を見ていくのですが、その前に少しだけ振り返りをしておきますね。
浦和は大宮と岩槻から、言葉は適切ではないのかもしれませんが
県庁をブン取っています。
この件について浦和市史は
えー、そんなことあったっけえ?
これくらいのテンションです。
しかし今回取り上げる熊谷との件については、多くの資料がわずか数行で書ききっているにも関わらず

数ページを割き熱量たっぷりに記録を残してくれました。
殴った方は忘れてしまうけど、殴られた方はずっと覚えている
ま・さ・に、コレですねwww
それでは!
浦和は熊谷に殴られた
明らかそう考えているであろう浦和の残した戦いの記録。そして、その中に垣間見える
…
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県北派と県南派【埼玉三國志⑤】
明治9年8月、竹井らの努力も虚しく熊谷県は廃止。ほぼ現在の県域の埼玉県が成立するのですが、埼玉県と熊谷県では行政の仕組みもまるで違いましたので、吸収された形の旧熊谷県側は、そりゃあ
面白くはありません。
抵抗意識という名の炎をメラメラ燃やすことになるのは当然の成り行きでした。
というわけで今回は「県庁奪還」を誓い団結することになった旧熊谷県派、すなわち
県北派と
浦和を中心とした
県南派の
衝突を見ていきます!
が、その前に、ちょうどこの頃はほとんどノープランでスタートした薩長政権が、やっとこさ国としての体を成し始める時代。背景をなるべく簡潔に説明させていただきますのでほんの1000文字ちょっとだけお付き合い下さいませwww

先ずは明治6年秋、征韓論に敗れ国へ帰ることになった西郷隆盛と、見送る板垣退助の間でこのような会話が交わされました
西郷さん、オレは言論によって国会をたてることを一生の仕事にする
板垣どん、言論なんぞでそんなことは出来やせん。今の政府を倒すことが先だ

西郷の言う「政府を倒す」とは、言うまでもなく西南戦争なのですが、その前段で起きた佐賀の乱において大久保利通は
江藤の首を晒し
その首を写真に収め
大量にコピーをし
全国の役所に貼らせるという現代の感覚でなくても恐ろしくサイコパスなことをしてしまいました。
この大久保の行為について
政府の残忍性を助長するだけだ
憤慨し、また写真を速やかに取り除くよう指示した男こそ!
…
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熊谷県の始まりと終わり・後編【埼玉三國志④】
おう! みんな張り切ってやってんなっ ああ、そのままそのまま、仕事を続けてくれい

建白書を見せてもらった
いやあ、まっこと見事な建白書だった
特に小泉くん、あれ君の字だろ?
素晴らしい清書だった。字が綺麗だとそれだけで印象がグッと良くなるんだ

というわけで今日は、熊谷県の実現に向け邁進する君たちに、良いニュースとちょーっとだけ悪いニュースを持ってきた。あー、大丈夫だ、悪いと言ってもオレ個人の問題だ、君たちにはあまり関係がねえ。心配すんな
ではまず良いニュースだが
君たちの建白書は朝議に上がった
目下詮議中だ。竹井、この機を逃すな。今すぐ上京し陸奥を押せっ
そして、悪いニュースだが
実は、わたくしめ渋沢栄一は、この度、大蔵省を
辞めることになりますた!

いやいやいやいや、渋沢のやつ、言い出しっぺのくせに肝心なところで政府の高官という立場を投げ捨ててしまいましたぞ。あどもこんにちわ、徳川家康です
以後彼は銀行の設立などに多忙を極めるのでしょう、この物語には登場しないのですが、私の方はもう乗りかかった船です。前回に引き続き解説を担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いします
それでは、竹井と熊谷の汗と涙の物語、後編ですっ

改めて聞くが、県庁が熊谷に設置された場合、県庁舎と官員の住居等は差し支えなく用意出来るのであろうな
はい、県庁舎はとりあえず熊谷寺の庫裡(くり)を充用すべく準備を進めております。官員の住居は空き家がございますので十分に間に合うでしょう。何も心配はございませんので、この件、何卒ご尽力のほどよろしくお願い致します…
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熊谷県の始まりと終わり・前編【埼玉三國志③】
ちょ、ちょっと待ってくれ渋沢。おめえ本当に話が長えな
まあそれは今さらどうにもならねえが、これは熊谷の将来、いや、この国の根幹に関わる話になるかもしれねえ。そのためには竹井、お前のチカラが必要だ。一から説明するので、しっかり頭に叩き込んでくれっ

新橋と横浜の間に鉄道が開通したのはおまえも知っているだろう。新政府、と言ってもまだまだ反対意見は多いのだが、伊藤と大隈はこの鉄道を京都まで延伸しようと考えている
横浜からということは東海道か
ああそうだ。新政府は東海道沿いに鉄道を引こうとしている。だがこのあいだボイルというエゲレス人に話を聞いたんだ
ボイルは東海道は無理ではないが、かかる費用に対する利が得られないのではないかと言っていた
なぜだ、東海道は往来も多いし、鉄道が通れば皆が喜んで利用するであろう
そこだ。東海道沿いはすでに発展しているし大阪からの船も多く行き来している。そこに鉄道を敷いても競合をするだけだ。日本という国単位で見た場合、二重投資になってしまう可能性もある
それにだ、鉄道を敷くには駅や線路を作るための用地を確保しなければならない。今の政府に東海道沿いの土地を買収する金はねえ
渋沢がないと言うのであればそうなであろうな
もう一つ、鉄道を敷くのにイチバン金のかかるのは橋だ。鉄の塊である機関車を通すんだ、今までのように木や石で作るわけにはいかねえ

なるほどなあ、色々あるんだなあ。あ、まさかおめえ中山道を
勘がいいな竹井、その通りだ。ボイルのチームは中山道を調査するためすでに高崎へ向かっている。決定はまだまだ先だが、中山道案が決まった場合、鉄道は間違いなく熊谷付近を通るであろう。いや、熊谷しかねえ
深谷でなくていいのか
鉄道が高崎まで通った場合、兄ぃの富岡製糸場はもちろん、秩父や寄居、羽生などで作られる生糸も鉄道で東京へ運ばれる。深谷と本庄は確かに大きな町ではあるが、地理的により東京に近い熊谷に分があるだろう。北関東にこの国イチバンの養蚕王国を築き、熊谷がその中心になる! どうだい竹井、おかしれえとは思わねえか
渋沢がそう言うのであれば断る理由は無いな。で、具体的には何をすればいい
おう!本題はここからだ

いやいやいやいや、渋沢のやつ、また何か大きなことを考えているようですな
あ、どうもご無沙汰しておりました、徳川家康です…
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