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埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地①】
どもこんにちは、ゴケゴーちゃんでっす
新シリーズ、埼玉県史を考えるヒント。第一回目はココ、東青梅よりスタートさせていただきます!
埼玉県史を、と言ったそばから東青梅? と思われるかもしれませんが、例えば埼玉県と千葉県群馬県の間には大きな川が流れていますが、埼玉県と東京都は地続きの元は同じ武蔵国、文化もさほど変わりませんので、分ける意味はないと思うんですね
そして、埼玉県西部。所沢や川越や富士見や新座などの歴史は、極端な話をしてしまうと青梅から始まっていると言っても過言ではありません
道がスプレー状に広がっていますね
ずうっとずうっと昔、今は青梅の南側を流れている多摩川はこの辺りから、時にはこっちへ、時にはこっちへ、自由に流れていました
その時代に多摩川は、奥多摩の山々から大量の土砂、小石ですね、礫と言います。大量の礫を吐き出し、広大な台地を作りました。こういう地形を何というでしょうか、扇状地、さっすがタモリさん、でお馴染みの扇状地ですね。武蔵野台地です
今回は、この武蔵野台地が埼玉県の歴史にどのように影響したのかを見ていきます
とは言え、武蔵野台地は大きい!
青梅を起点に、扇頂と言いますが、青梅を扇頂とする武蔵野台地がどこまで広がっているかというと
東京の上野に来ました
アメ横は低い場所にあります。武蔵野台地の下です、下町です。が、上野駅や上野動物園は高い位置、山の手にあります。つまりここが武蔵野台地の東側の一つの端。大きい! とてもじゃありませんが全部は紹介できませんので、今回は武蔵野台地の北側、青梅から川越市役所に向かって延びている川越台地を見ていきます。とても興味深い形をしていますので、どうぞ最後までお付き合い下さいませ
国道16号の宮寺の信号に来ました。宮寺の信号は川越台地のここですね、一段低い位置にあります。往路はここから上がったり下がったりしながら川越を目指していきますが、復路は右の道、重要な意味を持つ古い道です、この道を通ってこの場所に戻って来たいと思います
小谷田の信号に来ました。秩父の山並みが美しい、台地の上にいるからこその眺望ですね。それはともかく、元々の古い道はここを右、台地から降りることなく扇町屋へ向かうのですが、16号はどういうわけかここで台地を降ります
16号がなぜこのルートを通るのか。はっきりとした理由は分からないのですが、上を通る訳にはいかない特殊な事情もあった、ような気もしますので、ここは後半触れますね
台地を降り切りました。霞川が流れています。実は霞川は東青梅の駅からずっと一緒です
16号はおかしな斜度で再び台地を登ります。加治丘陵です。武蔵野台地と加治丘陵はもともとは一つの台地だったようですが、加治丘陵側の隆起が大きかったのと、霞川、東青梅から流れていることからも分かるように太古の時代の多摩川ですね。古多摩川の別名を持つ霞川が削ったために、このようなエグい谷になりました。この辺りを高倉と言います、高倉という地名を覚えておいて下さい
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埼玉県初の信号機はどこだ【さいたま市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は、埼玉県における一番最初に出来た信号機はどこだったのか、そしてなぜその場所だったのかを深掘りしていきたいと思います。それではいってみましょうっ
答えから言ってしまうと
与野です
与野の駅前通りと国道17号の交わる交差点、西友のある交差点の信号機が、埼玉県における信号機の初号機です
なぜ浦和大宮川越よりも先なんだ?
という疑問が湧くのは当然ですよね
これについては明確な理由がありそうなので、与野さんにご説明頂きたいと思います
(うい)まあ簡単に言ってしまうとだな、それはわが町与野が、自動車の街だからだ
自動車販売会社の始まりは昭和10年の関東モータースだ。今の国道17号が開通したばかりだった、主にシボレーの乗用車とトラックを扱っていたな
次に昭和12年の埼玉トヨダ、トヨタじゃねえぞ、ダだぞ
続いて昭和14年のダットサントラック、昭和18年埼玉日産自動車、21年埼玉トヨタ、23年埼玉日産モーター、埼玉三菱コルト、今の関東マツダ
埼玉スバルの前身となる埼玉ラビットというのもあったな、スクーター屋だ
もちろんこれは極々一部だ、自動車販売店が集まれば、板金屋、保険屋、看板屋、内燃機屋、部品商なども集まる
トラックの荷台の幌を作る、シート屋なんてのもあった
トラックの幌というのは業種によって仕様が様々で、例えばココに穴を開けてくれとか、自動車販売店では対応出来ないことも多かったのだ
詳しいな…
…
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粕壁中学校と県北勢の野望【埼玉三國志⑦】
当初より私は、熊谷・浦和・川越、3ヵ所への中学校設置案を推していたが、県の提案は1校であり、県の財政からいってもこれを3校に改めさせるのは困難である考え2校案に賛成した。しかし県内の入学志望者の全てを熊谷と浦和の2校に収容することなど出来るであろうか。私は昨年の県会で改めて川越と粕壁への設置を提案し、そしてその提案は、ここにいる県議の皆さまの満場一致を持って決議されたはずであるのに、それを今更
廃棄するとはどういうことか!
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は「第65話 浦和民には手を出すな! 後編」で取り上げた
旧制浦和高校、及び熊谷高校の
設置をめぐる争いの前哨戦である「中学校設置」についての問題から、あれよあれよと県庁所在地争奪戦へと繋がっていく、私も第65話を書いた時はまったく知らなかったエピソードをお送りさせていただきます。
特に川越高校・春日部高校の在校生・卒業生の皆さま。皆さまが今日も立派に学業、そしてお仕事に励むことが出来ているのは、明治30年のこのわちゃわちゃがあったから
授業で教わっているかもしれませんが、まさか県庁所在地には触れてないやろ思いますので、どうぞ! 最後までお付き合い下さいませっ
すったもんだの末、浦和と熊谷、2校の設置は決定しましたが、県全域にわたる教育の普及は二校だけでは到底足りるものではありませんでした。しかし頻繁に見舞われる水害により県の財政は甚だ困難。3校目4校目などとんでもないという意見もまだまだ多くありました。
浦和熊谷の開校もまだであり学校がどれほどの実績をあげるかも分からない。2校の増設は無謀である!
治水、堤防、道路等のために多大の支出を要し、しかもこれらの事業はようやくそのスタートラインに立ったばかりだ。教育機関の増設は県民の意思に反し、そして時期尚早である!
来年2月に県議員の選挙がある。所詮は選挙区に対するお土産案なのであろう
選挙に当選するためにやってんだろうと言うことですね。粕谷がこのような容赦のない侮辱を浴びせかけられた背景には「党派」の争いがありました。前回までは
元熊谷県の県北派
旧埼玉県の県南派…
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浦和の哀願書【埼玉三國志⑥】
以上が加藤が急飛脚で送ってきた書状の全てだ
県庁の熊谷移転はもう内定しているということですか!?
あとは内務大臣山縣有朋の決裁を仰ぐのみ、ここにはそう書いてあるな。いずれにせよ事態は急だ。オレは東京にいる加藤に会って事の進捗を確認してくる。皆は県議への働きかけと、玉蔵院だ、町内の有志に玉蔵院に集まるよう段取りをしてくれ
これは浦和の存続、いや
浦和滅亡の危機だ
皆も腹を括って事に当たって欲しい
県知事を抱きこみ挑んできた熊谷の前に、浦和はついに崖っぷちに追い込まれることになりました。
今回はその顛末を見ていくのですが、その前に少しだけ振り返りをしておきますね。
浦和は大宮と岩槻から、言葉は適切ではないのかもしれませんが
県庁をブン取っています。
この件について浦和市史は
えー、そんなことあったっけえ?
これくらいのテンションです。
しかし今回取り上げる熊谷との件については、多くの資料がわずか数行で書ききっているにも関わらず
数ページを割き熱量たっぷりに記録を残してくれました。
殴った方は忘れてしまうけど、殴られた方はずっと覚えている
ま・さ・に、コレですねwww
それでは!
浦和は熊谷に殴られた
明らかそう考えているであろう浦和の残した戦いの記録。そして、その中に垣間見える
…
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飯能、燃ゆる【飯能戦争⑮】
大村・佐土原・備前の各藩が
砲弾を雨のごとく
小銃を雷のごとく
浴びせながら飯能へ攻め入ったのは朝の6時頃でした。
筑前・筑後は双柳を突破し、川越藩は、振武軍の退路を断つべく白子(武蔵横手駅方面)へと回ります。また名栗川の対岸に因州勢とあるので鳥取藩ですね。鳥取が矢颪(やおろし)に大砲の設置を完了しました。
ただ、詳細については不明な点も多く、官軍の残した報告書もどの藩のものを見ても「ざっくりすぎる」ところがあるなあと感じますので、これまたあまりあてにはならないのですが
渋沢喜作
彼の言葉を引用し、戦いの経過を追っていきたいと思います。
戦いは23日の未明から始まった。お互い正々堂々と陣を張り、銃撃戦となり、簡単に勝負は付かなかった。
オレも隊長として、弾をものともせず兵士を指揮した。
新五郎も参謀長であるから、敵味方の形勢を見て進退の命令を伝えた。兵士も必死で戦った。官軍もかなり手こずった様子だった。
そのうち官軍は「破裂弾」の発射を始めた。
それにも屈せず防戦したが、ちょうど11時頃だったと思う。二発の砲弾が能仁寺の屋根に落ちたかと思うと、たちまちもの凄い勢いで燃え出した。
田舎寺ではあるがかなりの大寺。それが一面の火となって背後から燃えかかる。今がチャンスと官軍はときの声をあげ攻め寄せる。
5時間余りだった。交代する兵もなく、苦戦したオレたちは、この時すでに死傷者も多く、かつ疲労も甚だしかった。その上、小銃大砲と猛火とに前後から責めたてられたので、仕方なく陣地を捨てて残念ながらついに退却することとなった。
笹井河原の戦い【飯能戦争⑭】
野田笹井方面へ進んだ平九郎の一隊は、偵察の報告を受け、100名の兵をいくつかの部隊に編成し直しました。
平九郎の率いる主力部隊の80名は、入間市野田のどこかで入間川を渡り、髙倉山のふもとに身を潜めます。
残りの20名は旧道を直進、笹井方面に向かうと、その内の10名が後の事案から見て黒須付近に潜伏したと思われます。
たった10名で何が出来るのか、ちょっとナゾですよね?
このナゾについては別の隊の高岡槍太郎くん(19歳)が日記にヒントを残してくれましたので一文だけをご覧いただきますね。
夜討ちに赴くくらい故、小銃の弾薬も十分に蓄えなし(戊辰日誌)
夜中に切り込むくらいしかねえんだよ、ということですね。正面からぶつかっても勝負にならないということはすでに彰義隊が実証済みですし、そもそも銃も全員に行き渡るほどの数はありません。窮鼠猫を噛むではありませんが、最後に一発喰らわせて潔く(逃げる)。
ゲリラ的な戦術以外に打つ手は無いということが日記の一文から伺い知ることが出来ますよね。
しかしこの戦いにおいても官軍が一枚も二枚も上手でした。
平九郎は官軍の先陣500名が居るとの報告があった高倉山へ前進、敵の陣地をはるかに見上げます。が、早々に引き上げたのか官軍の気配がありません。
しかし午前2時頃だったと思います。敵がいないのはやはりおかしいと、平九郎は高倉の様子を伺うために入間川の流れに沿って笹井の河原に入ります。
平九郎たちを高倉へ向かわせたのは実は佐土原藩の作戦でした。
佐土原藩は高倉に陣を張っていることを振武軍の偵察に見せた上で兵を引き、入間川を渡った対岸の堤防に100名の銃隊を配置しました。
佐土原藩の報告書に、一番砲隊と銃隊は、他の藩に先んじて進軍を開始、入間川を渡って300メートルほど進んだところで図らずも兵に遭遇したとあるので、佐土原藩は平九郎の隊を「挟み撃ち」にするつもりだったのかもしれません。予定は少し狂ったようですが、平九郎はまんまと佐土原藩の罠にかかったという訳です。
戦闘の火蓋を切ったのは振武軍の方でした。
敵も味方も分からぬくらいの暗闇の中、先ずは気配に気が付いた振武軍兵士が小銃を放ちます。
その銃声を合図に伏せていた銃隊100名が立ち上がり大小砲を打ちかけた、とあるのでコイツですね
…
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それぞれの開戦前夜【飯能戦争⑬】
渋沢喜作率いる振武軍 VS 新政府軍
という構図でここまで来ましたので、ややもすると埼玉県全体が官軍に抵抗していた、そう受け取る方もいるのかなと思うのですが、喜作たちのケースはむしろ稀で、多くの志士は尊王攘夷。幕府を倒すために薩長と手を結び、喜作たちとは敵対する関係にありました。
毛呂山町の権田直助も倒幕に身を捧げた志士の一人でした。西郷隆盛と繋がりのあった権田は、この時、薩摩藩邸屯集隊の副総裁「落合源一郎直亮」を自宅に置き飯能の動きを注視しています。
というわけで今回は、落合源一郎直亮の見た飯能戦争「前日」の様子と、関係者各位の動向。そして、ついに出陣の瞬間(とき)を迎えた尾高平九郎の勇姿を、飯能市民の残した一枚のメモから想像してみたいと思います。
5月22日 朝8時、流賊の先手勢が五月雨がしのぎがたいほど降るというのに、40人余りが鉄砲を背負い、隊伍も整わず毛呂を通行した
鉄砲は剣付き銃ではなく、短いものもあれば長いものもあり、全てが不ぞろいである
続いて200人余りが通行したが、韮山流の陣笠に蓑を着たり、合羽を着た者もいる。裸馬を一匹引いていた。またカゴも三台通ったが、一台には病人が乗っていた。全て300人足らずの人数と見えた。
これが落合の残した手記の書き出しです。大雨の中を行く、たぶん上野で戦った彰義隊たちなのでしょう。彰義隊を先頭に進軍する旗本隊の姿を、まるで足音が聞こえきそうなくらいに克明に書き残してくれました。
この隊は白野率いる御抱組を中心とした共同隊でした。共同隊は飯能戦争の始まる前日の22日朝5時に飯能を出発し、清流峠(日高市)を超え、大谷木村(毛呂山町)の民家で休憩。越生に到着すると、JR越生駅前の法恩寺に一泊します。
白野が飯能? 白野は甲府へ向かったはずだよね?
確かに白野は「戦う気はない」と甲府を目指し田無を出発しています。
しかし、戦う気はないとは言っても大村益次郎から見れば振武軍も共同隊も同じ賊ども。共同隊も討伐のターゲットとして、大村藩など官軍主力部隊の追撃を受けることになりました。
進路変更はこの追撃から逃れるためのものだったのでしょう、白野は甲府行きを諦め、青梅から元川越藩のある「前橋」を目指し進路を北に取ります。その道中にあった村こそが、なんという運命のイタズラなのか
飯能でした。
さあて、気になるのは飯能で再会した白野と喜作がどんなやりとりをしたかですよね?
…
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ゲベール銃とミニエー銃【飯能戦争⑩】
ゲベール銃とモルチール砲でオンテレーレもした…
青天を衝けの第一話。岡部藩の牢に繋がれた高島秋帆(玉木宏)のつぶやいたセリフなのですが、どうでしょう。ほぼすべての方が、意味不明、もしくは聞き取れずにスルーしてしまったのではないでしょうか。
気が付けば「飯能戦争」も第10話。未だ飯能に到着せずボクも困惑し始めているのですが、このセリフの意味が分からないと幕末史の本当の姿は見えてきません! という訳で今回は、飯能戦争で使われた「武器」について見ていきたいと思いますっ
幕末史の有名な場面に、長州の代わりに薩摩が武器を購入、長州に横流しするというものがありました。
多くの読み物はこの場面の登場人物を、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬、中岡慎太郎の4人で書ききってしまうのですが、この4人のみだと武器を「売る側」の人間がいらっしゃいませんよね?
武器の売り手は、時に「死の商人」と呼ばれることもある
グラバーは商人ですから日本に武器を売りたがっていました。特に慶応の初めの頃はアメリカの戦争がちょうど終わったタイミングでしたので中古の武器を大量に在庫していたんですね
Youタチ、トクガワ倒シチャイナヨ
一儲けをするために薩長に思いっきり「戦争」をけしかけたのだと思います。それはともかく、この時グラバーが薩長に売りつけた武器は最新とは言わないまでも、それまでのものとは比べようもない「強力」極まりないものでした。
この頃の銃は高島秋帆が徳丸ヶ原で行ったオンテレーレ、あ、オンテレーレとは「演習」という意味ですね。演習で使用したことにより幕府が正式採用を決めたオランダの軍用銃
でした。
ゲベール銃は本格的な輸入が始まると、1850年代には「今日から撃てるゲベール銃!」的な教本が数多く発行され、1860年代には国産品だけで需要が賄えるほどに普及します。
ところが、1866年の第二次長州征伐。
幕府側の先陣は徳川四天王の一角、彦根の井伊隊でした。
楽勝ムードの井伊隊は、降伏するなら今だぞ? と軍使を二人進めます。が、長州はこの二人を躊躇なく狙撃、打ち沈めると、大砲小銃を浴びせかけるように放ちました。
この時のことを後に長州は
実に憐れむべきの次第
「かわいそうなくらいだった」と回想。井伊側も「具足櫃も置き立てに致したることなれば狼狽察すべし(自慢の甲冑も置いて逃げるくらいに慌てた)」と記しているので「総崩れ」の状態だったのでしょう。井伊の敗退を知った同じく四天王である榊原の軍勢も一緒になって逃げ帰ってしまいました。
…
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所沢の動乱・1【飯能戦争⑧】
慶応4年5月17日、早朝5時。
御抱組と彰義隊のケガ人を合わせた「共同隊」が甲府を目指し田無を発っていきました。
遅れて9時。
渋沢喜作率いる振武軍が「飯能」へ向けて出発します。
この時の行程を、ほとんどの資料が「田無を出発、所沢でランチをとり、扇町屋に宿泊。翌18日、飯能へ入る」の一行のみで終わらせてしまうのですが、これだと喜作たちがいつもと変わらぬ所沢をすんなり「素通り」していったように思えますよね?
とんでもないです。
喜作たちの通った頃の所沢は「動乱」のまっただ中にありました。今回は、慶応4年の春から夏にかけての所沢がどんな目にあっていたのか、そこに焦点を当てて見ていきます。少し話は逸れますが、周辺地域の苦悩をスルーして飯能に入る訳にはいきませんからね。
喜作たちが所沢を通ったのは慶応4年の5月でした。けれど少し戻って3月の終わり頃からお話させていただきますね。
勝楽寺村事件
慶応4年3月30日。所沢勝楽寺村城山に、北野、三ケ島、宮寺の博徒(ばくと)、まあヤンキーみたいなものですね、ヤンキーが100名ほど集まり、山口村に、飯の準備をしろ、酒持ってこい、拒否するなら打ちこわして放火するぞと脅しをかけました。
所沢村は早速「農兵」の出動を要請、4月1日に城山を包囲し発砲、ヤンキーどもを鎮圧します。
翌2日、三ケ島村、糀谷村、林村などの名主が所沢村に集まり、この事件をどう代官所に報告するかを協議
そして「奴らも後悔しているので許してやって欲しい、ウチで引き取り改心させる」と三ケ島村が申し出たことで、内々に処理することを決定、事件は一応の決着をみました。
この事件から、どのような背景が見えてくるのか考えますね。
まず一つ、根底にあるのは言うまでもなく「貧困」です。暴力に頼らざる得ない程に追い詰めらた者たちがチームになり、村の治安を脅かしていました。
次に、所沢の農民はヤンキーを鎮圧するために「銃」を使用しました。銃と言ってもイノシシやシカを獲るための火縄銃じゃないですよ。まあ火縄銃もあったかもしれませんが、使用したのは幕府の許可を得て所持している戦闘用のゲベール銃でした。
幕末の関東は「リアル北斗の拳」と言って差し支えのないほどに荒れ果て混乱した状態でした。村々の貧困は極限に達し、博徒と呼ばれるアウトローが勢力を拡大。力の衰えた幕府にそれを抑える力はありませんでした。
…
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