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新川村にまつわるえとせとら【熊谷市】
コロナのおかげでチャリンコすらはばかられる昨今ではありますが、引きこもってばかりでは逆に免疫力を落としてしまう。ということで、荒川サイクリングロードを少し走り、身も心もリフレッシュしてきました。
合わせて、荒サイ沿いに今も残る
誰も住んでいない村
にも立ち寄ってきましたので、今回はこの「無人の村」について見ていきたいと思います。地味なテーマのようにも思えますが、日本史という大きな流れに翻弄された史実もありましたので、どうぞ! 最後までお付き合い下さいませっ
今は誰も住んでいない村、その名を
新川村(しんかわむら)
と言います。場所は熊谷市というよりも行田駅にほど近いこのあたり
冠水橋だった久下橋の少し下流側ですね。新川村の詳細についてはコチラのサイトが網羅しておりますのでそちらをご覧いただくことにして
平安時代の終わりの頃、このあたりは久下郷と呼ばれ、鎌倉幕府の御家人、久下直光(くげなおみつ)という方が管理をしていました。
この久下郷で2歳からの幼少期、そして元服するまでなのかな、青年期を過ごした男が、後に保元・平治の乱を初め、数々の合戦で武功を挙げる
久下直光と熊谷直実は、久下郷と熊谷郷の境界線について、また、直光の直実に対する扱いなどについて、たびたび衝突を起こしていました。
そんなある日こと
ついに見かねたのでしょう、このお方が直々にその御顔を突っ込んできますwww
頼朝は直実のことがちょっと好きだったと思うんですね。
直実の立場が弱いのは知っている…
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小代氏の手紙【東松山市】
どもこんにちは、ゴケゴーちゃんです!
早速ですが今回は、東松山市正代、ピオニーウォークの辺りに住まわれていた鎌倉幕府の御家人
小代伊重という方の書き残した置文、子どもたち、そして子孫に宛てて書いたお手紙ですね、そちらのお手紙を紹介させていただきます
鎌倉時代の武士が、何を大事にし、何を求めていたのか、その点が現代の私たちにもよく分かる、実に興味深い、そしてめっちゃ切ない
全東松山が泣いた!
的なお手紙ですので、どうぞ最後までお付き合いくださいませっ
実際の置文はもっともっと長いのですが、全文を紹介することにあまり意味はないと感じますので抜粋です。イメージとして見て下さい
源頼朝公が奥州藤原氏を攻めた時、小代行平は先駆けて実績を上げたので恩賞として陸奥国気仙郡を与えられた。今の宮城県気仙沼市ですね
しかし行平は気仙郡は土地が狭いと言ってこの恩賞を辞退した
源頼朝公が伊豆山神社の石段を下る際
行平の肩を抑え、手を置いたということですかね
お前を心安き者と思うぞ
とおっしゃったwww
小代行平とはコレシゲが手紙を書いたざっくり100年ほど前に、一の谷の戦い、奥州藤原攻め等に参加し実績を上げた鎌倉幕府の中堅どころの御家人です
椀飯(おうばん)の責任者も務めるなど
あ、飯椀というのは今はまったく見かけませんが、昔はお正月に社長や部長など上司や、お世話になった方のご自宅に挨拶に行く「年始回り」というのがあったんですね。そんなイメージでいいのかなと思います(雑)
…
悪源太と6人の埼玉県民【源義平】
源義平(みなもとのよしひら)
後に鎌倉幕府を開く源頼朝の兄でもある彼が、何を目的に東松山市正代に館を構えたのか。
今回はそこを見ていく、前に~、義平とはどんな男だったのか、そしてその義平に埼玉県民はどう関わったのか。先ずはそっちから見ていきたいと思います!
埼玉県民が日本史の中で最も輝いた瞬間
かもしれない、あの日の出来事を、ご存知の方も、そうでない方も、一緒に振り返っていきましょうぞっ
時は1159年12月
場所は平安京大内裏
待賢門(たいけんもん)に陣取った義平のパパである源義朝は、圧倒的に不利な状況なもとで平家の大軍と対峙していました。
年号は平治、場所は平安京、我らは平家。平の字が三つもある。この戦、負ける要素が無いのおwww
平治物語のクライマックスの場面ですね
待賢門を突破し、御所の広い庭に踏み入ってきたのは、清盛の後継者として期待される平家の若きエース
平重盛、23歳
迎え撃つは、埼玉県の嵐山町で叔父である源義賢を殺害
強い(悪)
源氏の(源)
長男(太郎)
という意味である
悪源太(あくげんた)
の異名を持つ
源義平、19歳
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1古代のスーパー直線道路【所沢市/狭山市】
The long and winding road that leads to your door〜
今さら説明の必要もないビートルズの代表曲ですが、他にも美空ひばりさんや米津玄師さんなどなど
知らず知らず 歩いてきた 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道〜
曲がりくねり はしゃいだ道〜
どうも道というやつは、細く長く曲がりくねっていたほうが情緒を感じやすいのか、歌や詩になりやすい傾向にあるのかもしれません
しかし平成元年
そんな情緒を一切無視した
巨大で!
真っ直ぐな!
道路跡が所沢市の中学校から発見されます
道の幅は約12メートル。真っ直ぐに伸びる道筋は、もしや古より伝わりしスーパー直線道路
東山道武蔵道
の一部なのではと、それは大きな話題になりました
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悲劇の花婿 入間川に散る【源義高】
国道16号沿いのとある場所に、気にしていても見落としてしまうくらいの小さな小さな神社があります。
清水冠者源義高終焉の地
1184年の春、源義高という青年と呼ぶにはまだ早い、一人の少年がこの場所で命を落としました。
今回はその顛末について見ていきます。ひどい話ですが、これも歴史。感傷的になりすぎないよう進めていきますので、どうぞ最後までお付き合いくださいませ!
源義高とは、あの有名な木曽義仲のご子息です。
ちなみに義仲のパパは義賢
パパがよしかたで息子がよしたかwww
ややこしいかと思いきや、義仲のファミリーはややこしすぎて逆に覚えやすかったりもしますので、セットで頭に入れてしまうとお得でしょうwww
それはさておき激動の治承4年。頼朝に少し遅れて木曽義仲も信濃で挙兵をします。その義仲が今の群馬県に進行するあたりからお話させていただきますね。
1180年10月、義仲、パパ義賢の旧領である上野(こうずけ)の多胡(たこ)に入る
1180年12月、源頼朝の勢力が及んできたために信濃に退却する
1181年、関西を中心に大規模な飢饉が起き平家も源氏も義仲も争いどころじゃなくなる
1183年、頼朝に敵対した志田義広が義仲を頼り信濃に入る。義仲と頼朝との関係が悪化する
頼朝は義仲を討つため10万の兵を信濃に差し向ける
義仲、頼朝と戦う気はないことを示すため、息子 義高を人質として鎌倉に送り頼朝と和睦する
義仲の子義高は「人質」という厳しい立場で鎌倉に送られることになりました。…
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真夜中のパン屋【川越市】
古いパソコンの中から思わず声が出てしまうような懐かしい写真が出てきましたので、今日は川越にあった幻のパン屋「岩田屋」の思い出話をしてみたいなと思います。
川越市役所のそばに深夜営業しかしないパン屋がかつてありました。
深夜営業のみにも関わらず行列のできる人気店でしたので記憶にある方も多いと思うのですが、閉店してからかれこれ17、8年経ちますよね? 移転してやってるよとかだったら教えて下さいね、ホントのホントに
幻のパン屋、と先ほど表現しましたが、確か夜9時前後に開店し、定休日は日曜日。勤勉に営業されていたと記憶しています。少なくともボクが伺ってお休みだったことはありません。
そもそもなぜ夜しか営業しないのか。実は聞いてみたことがあります。
以下、脚色なしでお送りしますので、おまえ話持ってんな! そう思わずにご覧くださいませ。
あのー、何で夜しかやってないんですか?
ちっ、ちっ、ちっ(悪意のない舌打ちをする音)
あさ~こねて~~~(朝、こねて)
ひる~~焼いてると~~~(昼、焼いていると)
夜になる。
全く納得です。朝下ごしらえして、昼焼いていたら夜になるのは当たり前です。昼間営業しているパン屋の方がおかしいとさえ思えてきましたwww
さらに店主さんは何も聞いていないのに話を続けます。
うちのパンには添加物が入っていない、添加物が入っていない、添加物が入っていないから…
一時半までに食べて。
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埼玉はなぜ埼玉という名称なのか
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は、埼玉県民の基本のキかもしれませんね
埼玉はなぜ埼玉なのか
というナゾについて考えてみます。それでは行ってみましょうっ
埼玉県が「埼玉」を名乗るようになった理由はハッキリしています
明治4年に埼玉県が成立した際、当初の県庁として定められた岩槻が埼玉郡に属していたため、埼玉県は埼玉を名乗ることになりました
ではなぜ、埼玉群は「埼玉」だったのか
これは学校でも習いましたよね、さきたま古墳群ですね
ただ埼玉古墳群は「さいたま」ではなく「さきたま」と読みますよね?
コレはなぜ二種類あるのかと言うと
たぶん、イ音便
どちらが正しいではなく、単に「音」が変化しただけなような気がします。イ音便とは、美しきが美しい、おっしゃりますがおっしゃいますなど、主に「き、ぎ、し、り」が「い」に変わる現象ですね
とは言え「さき」は重要なキーワード。もう少し「さき」に注目し掘り下げていきますね
「さき」とは
先・崎・前
何かの先っちょであることを意味していると思うのですが、その前に「道」の成り立ちについて知っておく必要があるので説明しておきます。
五畿七道(ごきしちどう):律令制にて定められた行政区分。五畿とは主に今の近畿地方、それ以外の地域はそれぞれ七つの道に区分けされた
県やなになに地方の存在しない時代、地域は「道に属する」という形で区分けをされていました。いまいちピンときませんが、韓国は今も「慶尚南道」や「全羅南道」ですし、そういえば北海道も「道」ですね
身近なところだと上総(かずさ)と下総(しもうさ)の関係が分かりやすいのでそちらを使ってお話しますね
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スケベな万葉歌碑に自分のルーツを見る【日高市/飯能市】
新元号の出典元となったことで注目の集まった日本最古の歌本、万葉集。 これは良い機会、今こそしっかり読んでおくべき古典だ
そう思い立った方も、私も含めて多いのかな〜と思うのですが
ええ、読んでないですよねwww
なので
埼玉には万葉集に歌われた場所がちょこちょことありますので、今回は飯能日高のそちらを紹介して、少しだけでも読んだ気になっておくべかなーと思います
ひとつ目は飯能市、駿河台大学の斜め前、阿須運動公園にあるコチラ
漢文だと何と書いてあるのかニュアンスすらも読み取れませんね。現代語訳的なものも刻んでありますが
阿須の上に 駒を繋ぎて危ほかと 人妻児ろを 息にわがする(あずのうえにこまをつなぎてあやほかとひとづまころをいきにわがする)
いまいち場面というか映像が浮かんできません。ただ、人妻??? 息??? ちょっとスケベな感情を詠んでいるのは分かりますよね。実に興味深いです、案内板を見てみましょう!
読めんがな! 薄くて!
仕方がありませんので個人的な解釈で説明していきたいと思います
あずというのは崩れた崖のことです。その崩れた崖にお馬さんをつないだらとても危ない
つまりこんな感じ
飯能市民球場の崖の上に馬を繋いだらとても危ない。それと同じくらい、人妻を好きになるのは危険なこと。それは分かっちゃいるけど彼女を見ているとハアハアしちゃう
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西武ドーム前にある本物の江戸に会いに行く【所沢市】
あれよあれよとマジックが減り、最後はするっと令和初のパリーグ覇者となってしまった我らが西武ライオンズ! 去年のことがありますので(クライマックス敗退)浮かれる訳にはまいりませんが優勝は優勝。今日という日は勝利の美酒に酔いしれたいと思いますっ
ところで東京都民様。
お互い順当にいけば、東京ドームとココ所沢で日本シリーズが開催される訳ですが、通行手形とか草でも食わせておけとか、それはさすがに言い過ぎじゃないかと思うんですよ?
東京で「江戸時代の風景」を探そうと思うと、ちょっと大変です。
大きな火事は何度もあったし、上野戦争、関東大震災、東京大空襲。忘れてはいけない出来事もたくさんありました。そこはボクも残念に思っておりますが、東京に入るのに手形を見せろなどと言われればコチラも黙ってはいられません。
所沢には東京都民様の知らない江戸がある。日本シリーズついでに江戸の風景が見たければ通行手形などとは言わない。黄色い電車の切符を買うがよい!
西武ライオンズが必勝祈願をすることで有名な「狭山不動尊」の山門です。
狭山不動尊そのものは昭和50年の建立ですので江戸でもなんでもありません
が!
この門を建てたのは生まれながらにしての将軍、徳川家光公! そしてもともとは東京芝の増上寺にあったもの!
どうだ、恐れ入ったか東京都民様よ。
西武鉄道が一大観光地を作ろうとしていた頃の名残
空襲で焼けた増上寺の一角(現在のザ・プリンスパークタワー東京のあたり)を今の西武鉄道が買い取り、焼け残った門などの文化財を所沢に移築させたんですね。そのため、日光にありそうな、言ってしまえば所沢にはまったく不釣り合いなデーハーな門がココにあるという訳です。
門は二代将軍徳川秀忠霊廟(れいびょう)台徳院(だいとくいん)にあったもの。秀忠に縁のある門は狭山不動尊内に3つあり、どれも江戸時代初期のものと云われています
これを江戸時代の風景と言わずして何と言おうか!
東京都民様よ、ちょっと頭が高いぞよ。ふぉっふぉっふぉwww
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