悪源太と6人の埼玉県民【源義平】
源義平(みなもとのよしひら)
後に鎌倉幕府を開く源頼朝の兄でもある彼が、何を目的に東松山市正代に館を構えたのか。
今回はそこを見ていく、前に~、義平とはどんな男だったのか、そしてその義平に埼玉県民はどう関わったのか。先ずはそっちから見ていきたいと思います!
埼玉県民が日本史の中で最も輝いた瞬間
かもしれない、あの日の出来事を、ご存知の方も、そうでない方も、一緒に振り返っていきましょうぞっ
時は1159年12月
場所は平安京大内裏
待賢門(たいけんもん)に陣取った義平のパパである源義朝は、圧倒的に不利な状況なもとで平家の大軍と対峙していました。
年号は平治、場所は平安京、我らは平家。平の字が三つもある。この戦、負ける要素が無いのおwww
平治物語のクライマックスの場面ですね
待賢門を突破し、御所の広い庭に踏み入ってきたのは、清盛の後継者として期待される平家の若きエース
平重盛、23歳
迎え撃つは、埼玉県の嵐山町で叔父である源義賢を殺害
強い(悪)
源氏の(源)
長男(太郎)
という意味である
悪源太(あくげんた)
の異名を持つ
源義平、19歳
場所と状況を考慮すると、もうこの時点で目眩がするほどカッコいいんですけどね、あろうことか源義平
重盛率いる500騎に、わずか17騎のみで立ち向かっていくことになります!
平治物語は物語ですので、どこまでが本当のことなのかは分かりません。けれど、だからといって作り話と切り捨てちゃつまんないですよね?
なので平家と源氏の若き御曹司が御所の庭でぶつかり合うという、まるでマンガのような展開に心から酔いしれたいと思いますwww
名前ぐらいは聞いたことがあるであろう、我こそが義朝が嫡男、悪源太義平!!
四つ目の平の字は我が名にあるんじゃボケェェェ!!
この時、義平に従い戦った選び抜かれし精鋭16騎+義平のことを俗に
義平17騎と言います
そして、ほとんど知られてはおりませんが、この17騎の中には、結構な数の埼玉県民が含まれていました。
平治の乱を扱う書籍やマンガをいくつか拝見してきましたが、義平17騎にスポットライトを当てた、まして
埼玉県民が!
こんなにも参加していた!
という事実に着目したシナリオには残念ながらお目にかかったことがありませんので、気持ちは義平に従った16人全員の名を紹介したいところなのですが、めんどく、いや、長くなってもアレなので、当ブログの趣旨に則り、埼玉県民のみの「6名」を紹介させていただきたいと思います! あいうえお順ですぞっ
矢は付き刀も折れて困っていた金子家忠に刀を融通する、平治物語に「こころのうちこそやさしけれ」と評された男
さいたま市(桶川説あり)からお越しの
足立遠元(あだちとおもと)さん
この時、重盛に従っていた平盛俊を、25年後の一の谷で討ち取りリベンジを果たした
児玉郡美里町よりお越しの
猪俣範綱(いのまたのりつな)さん
同じく一の谷で平家の大将、平忠度(ただのり)を討ち取り、敵も味方もなくブーイングされた
深谷市からお越しの
岡部忠澄(おかべただずみ)さん
矢は付き刀折れてなお戦い続けし武者ぶりは平治の乱の語り草。武勇においては右に出るものもいない若武者、で・す・け・ど・も!
女装した二条天皇を見破れなかったのも実はこの人。天皇を逃すことで義朝軍を圧倒的に不利な立場に追い込んでしまいました
入間市からお越しの
金子家忠(かねこいえただ)さん
熊谷市のゆるキャラ「にゃおざね」のモデルはもちろん直実!
熊谷市からお越しの
熊谷直実(くまがいなおざね)さん
白髪染めのことなら俺に聞け!
妻沼町(現熊谷市)からお越しの
斎藤実盛(さいとうさねもり)さん
熊谷直実と斎藤実盛のお二人は特にエピソードの多いお方たちなので今回はあえて端折りました。
それでは、もう一度確認しておきますね。
京都の御所の紫辰殿の白い砂を敷き詰めた広い庭の上で平家のエースと源氏のエースが正面からぶつかり合うしかも相手は500こっちは17というマンガみたいな場面のそれも日本史の教科書に必ず載ってしまう歴史的な戦いの選ばれし17人の中にっ(超早口)
埼玉県民が6人も含まれていたんですよ!?
これを埼玉県民が日本史の中で最も輝いた瞬間と言わずして何と云おうか!!
と、思うんですけど
それはさて置き話は戻って、この場面。
わずか17騎で前へ出る義平の姿を目に焼き付ける一人の、いや、二人にしておきましょう。二人の少年がおりました
一人は義朝の次男、義平にとっては弟に当たる
源朝長(ともなが)16歳
もう一人は、この戦いが初陣となる義朝が三男
源頼朝、12歳
義平は義朝の長男です。
しかし源氏の嫡流は、この日、八幡太郎義家より伝わる源氏の正当な後継者のみに許された
源太産衣(げんたがうぶぎ)
を着用した三男の頼朝に継がれることが決まっていました。
頼朝の母は熱田神宮の宮司のお嬢さんというとても高貴な方でした。
一方次男朝長の母は相模の豪族 波多野氏のお嬢さん。そして義平の母も同じく相模の豪族 三浦氏のお嬢さん、ということに一応はなっておりますが遠江国の遊女という説もあったりして本当のところは分かっていません。
いずれにせよ家格(かかく)の良くない義平に源氏の嫡流を継ぐ資格はありませんでした。
父義朝から鎌倉を任され、埼玉に勢力を張り出してくる叔父の義賢を躊躇なく討ち、命を張って実力も実績も勢力も積み上げてきましたが、自分が父の跡を継ぐことは無いということを義平は知っていました。
義平は何を思っていたのか。それは想像する他ありませんが、様々なエピソードから察するに
強くなるしかねえ。
こう確信していたと思います。
腕っぷしで誰もを圧倒する。それくらいの気持ちで筋トレする、飯食って体をでかくする、あいつが200素振りするならオレは倍の400する
パワーで世界をひれ伏せさせてやる
10代の男の子ですものね。この道以外になかったと思うんですよね
かくして義平は御所の白い砂の上に立ちました。
今こそが人生のハイライトである。そんな晴れ晴れしい気持ちだったかどうかは分かりませんが、その場所にいたすべての兵の視線が、そしてこの国の行く先を決定付ける大きな流れのようなものが、義平と16人の精鋭たちに注目していたのは間違いなかったであろうと思います。
義平は鎌倉を本拠にしていました。
叔父の義賢を嵐山町で討ち、埼玉を勢力下に置きました。
その中で今まさに義平に従う若武者たちとの出会いがありました。
お互いをぶつけ合い鍛えぬいた日々。
そして、恋。
なんだかんだでしっかりアオハルしてますよね義平www
平時物語のクライマックスの場面です。
義平は、待賢門を突破してきた重盛率いる500騎に、たったの17騎で立ち向かっていきました。
戦いの結末は
平治物語をお読み下さいね。超おもしろいのでwww
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