たとえ雑兵と呼ばれても【武蔵七党】
壇ノ浦の戦いのクライマックスの場面
阿修羅のごとく源氏の兵を切り捨てていく平教経(のりつね)に、敗戦を悟った平家の大将 平知盛がこう語りかけます
能登殿、いたう罪な作り給ひそ、さりとて、よきかたきか
現代語訳しますね。
ノリツネ。もうこれ以上罪つくりな人殺しはするな、たいした敵でもあるまいに
たいした敵でもあるまいに!!
今回は平家物語全般にわたり雑な扱いを受ける「武蔵七党」の皆さんについて見ていきたいと思います!
平安末期から南北朝時代。息の長い方だと「のぼうの城」でおなじみの成田氏(横山党説)など戦国時代にかけてまで。埼玉を舞台に活躍した武蔵七党とはどのような一族だったのか。長くなってしまうのですが、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
前提として七党と言っても7つに固定されていた訳ではありません。お江戸八百八町やヤマタノオロチと同じなのでしょうね、日本史に登場する七や八には「多い」という意味が含まれることがあるようです。
また、党ごとの一覧を並べましたが、例えば屋島の戦いでカブトのひらひらを引きちぎられた美尾屋氏などは、児玉党には名前がありませんが、川島町史には児玉党に属していたと書かれています。書いていて気が付きましたが二つの党に名前のある方もいらっしゃいました。要は分からないこともあるということです。
また、武蔵七党 = 埼玉七党ではありません。
武蔵七党を取り上げるのであれば、武蔵国に本拠を置いた全ての党を紹介するべきなのですが、ここは当ブログの趣旨に則り埼玉県を中心に書かせていただきました。
ただ横山党については勢力が県内にも見られますので触れました。西党は平山季重という熊谷直実と対比しておきたい男が居るので取り上げました。都築党は割愛しています。それでは児玉党から見ていきましょう!
本庄児玉インターチェンジのあたりと言えばどのへんに勢力を張った党なのか伝わりやすいかもしれませんね。
当サイトもすでに2回 小代氏の手紙 花一揆と児玉党のうちわ …
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