明治コレラ一揆【川口市】
感染者数過去最多ま!
なんて騒ぐのもバカらしくなるくらいの勢いで感染の拡大が続いておりますが、こういう時こそ「人類はどのように疫病と向き合ってきたのか」過去から知見を得るべきではないかと思うんですね。
という訳で今回は、明治12年、愛知県で発生したコレラが埼玉県に伝播、川口市のお婆さんが亡くなり、そのお葬式がクラスターとなり、瞬く間に近隣地域に広がってしまった「コレラ騒動」について見ていきます!
ワクチン派も反ワクチン派も分断はちょっとだけお休みして、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ

それでは早速、明治政府の実施したコレラ対応の一部をご覧いただきますね。
家という家にナワを張り健康な人であろうと関係なく強制ステイホームさせた。
患者のいる家は門にその旨を張り出すこと、死んだコレラ罹患者の運搬の際は黄色の小幡にコレラと書くよう通達した。
密を避けるため、大衆の集まる、芝居、寄席などの興行を当分の間すべて禁止することを命じた。また、悪病退散と称して神輿をかつぎコレラ退散を祈祷するようなことが行われていたのでこれも禁止した。
痛みやすい、スイカ、真桑瓜、モモ、ナシ、柿、カニ、シャコ、タコ、イカ、エビ10品目の流通を禁止した。
不潔な便所やごみ捨て場、ドブなどをよく清掃し、石炭酸、硫酸、亜酸化鉄などで消毒するよう指示をした。
コレラ患者の発生が多い地区に検疫出張所を設置、県から委員を派遣、検疫指導に当たることにした。
埼玉県は草加警察署の警官を北足立郡東本郷村(現川口市)に派遣、傑伝寺を防疫本部とし、コレラ患者はもちろん、少しでも下痢などの症状があればどしどし隔離、消毒を行った。また、全棟寺の裏山に大きな穴を掘り、患者を出した家の家財道具、寝具、衣類などを焼いた。

これが全てではありませんが、ステイホームやイベント等の禁止など、今とまるで同じ項目もありますね。ただ、警察の方は登場しましたが、お医者さまがいらっしゃいませんよね?
医者はまだいなかった?
いえ、県が各市町村に配布した「コレラ予防薬」は県立医学校が調剤していますので、いなかったということはないのですが、埼玉にはコストのかかる医者の養成などは東京にやってもらえば良いという「東京依存根性」があり、医療についてまるで積極的ではなかったんですね。
そしてもう一つ。これが騒動の一番の原因になったと思うのですが、明治政府の富国強兵の下で、住民生活の向上、環境整備といった福祉民生面は極めて軽視され、ことに
衛生行政は警察の支配下に
置かれていたということがあり、コレラ対策といっても、取り締まりと強制隔離に終止、抜本的な対策は立てられいなかった、と言うより、立てることが出来ないでいました。

警察のこの場当たり的なやり方に、当たり前のことなのですが村民が猛反発!
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