カテゴリー: 御家人GO!知れば楽しい埼玉県史
狭服山の六孫王【鴻巣市】
どもこんにちは、ゴケゴーちゃんです
早速ですが今回は、知らない人はまったく知らない。知っている人も
武士としての鍛錬が出来てなかった人ね
まったく良い印象のない、源頼朝を産んだ清和源氏の祖
源経基
について見ていきます! 経基は本当にダメな男だったのか、彼が埼玉に残した足跡から考えていきますね

鴻巣高校の裏に源経基が館を構えたと伝わる森があります。その森の奥に
六孫王経基城跡の碑
六孫王とは
清和天皇の6番目の孫の子
という意味なのですが
この時点で若干ダメな感じはしますよねwww

ただ当時はどエライ肩書だったのでしょう
経基はこの肩書きを引っ提げ、武蔵国の副知事、次官に当たる介として赴任してきました
介といっても守が来ていないっぽいので実質トップですね

この時一緒にやってきたのが
…
YouTube始めました
埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地③】

扇状地がどのように形成されるかというと、まず大きめの礫が堆積し、だんだん小さくなって、砂になって、泥。川の流れが変われば、また礫、砂、泥。こうして地層が出来るんですけど、それは置いといて、私は今、川越の高階地区にいます。高階という地区名から、ここが武蔵野台地の上であることが想像できますよね

ということは、川は地域の一番低いところを流れている(おさらいです)ここから新河岸川に向かって下がっていきますから、どこかに砂があるはず。探してみましょう

ただ、何万年も前の話ですし、砂ですから、例えば新河岸川が5年に一回氾濫したら、一万年で二千回氾濫、流されちゃって、砂の痕跡はもう何も残っていないと思うんですけど
あったーーーw w w

はい! それでは武蔵野台地の3回目。ここ新河岸駅から、だいたい川越街道に沿って県境の和光市まで行ってみたいと思います。今回は「水」に焦点を絞りました、いってみましょう
ふじみ野のイオンに来ました

この大きなイオンのすぐ裏に、最近の調査で三世紀後半のものであることが分かったとても貴重な古墳があります
権現山古墳群です
三世紀後半と言われてもピンときませんが、行田市のさきたま古墳群よりも200年古い。おとなり川越市にある埼玉最古級の方墳、三変稲荷神社古墳を有する仙波古墳群よりも100年古い。あの卑弥呼の生きたすぐ後くらいの時代のものですから、埼玉最古級の古墳、まあとにかく古いものなんですね

では、三世紀にすでに埼玉県に権力が誕生していたということなのですが、権力者はなぜふじみ野市を選んだのでしょうか、気になりますよね。ヒントが落ちているかもしれませんので探してみましょう。ただねえ1700年も前の話ですし、デカいイオンも建っちゃいましたからね、流石にもう何も残ってはいないだろうな思うんですけど
あったーw w w
天丼はしつこいと逆効果らしいのでこれっきりにしますねwww

湧き水ですね。武蔵野台地の崖から湧き出る水が、それこそ滝のようにどっぱどっぱと流れていた。豊富な水があれば、水争いなど、争いごとも減ります。古墳のあるところは地形的に魅力的な場所であることが多い(おさらいです)ふじみ野市滝は三世紀から、もしかしたらそれ以前より、住みたい町ランキング上位の常連だったのかもしれませんね。ちなみに家康様が立ち寄ったので権現山といいます…
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埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地②】

川越警察署にいます
周りには田んぼしかないですね。ここは荒川低地だからです
それでは川越台地復路! 行ってみましょう
16号は坂道をダーっと上がり川越台地に復帰します
富士見、往路にもありました。高台にありがちな地名です。現在は富士山ではなく伊佐沼の花火大会がよく見えるということで人気ですね
この辺りには古墳がたくさんあります。16号から見えるものだけ紹介しますね
先ずは右側、運転をしながら探すのはおやめ下さい
氷川神社古墳
次左側、愛宕神社古墳
そしてまた右側、浅間神社古墳
仙波古墳群と言います

古墳というのは、わざわざ見に行っても面白いことはあまりないのですが、古墳があるということは、その時代にそこに人が住んでいたということなので、地形的に魅力のある場所であることが多いんですね。渋沢栄一の手がけた日本で初めての住宅街「田園調布」にもどデカい古墳がありますよね。仙波も豊富な湧水のある、かつ、天気の良い日は筑波山まで見渡せる、とても良い所だと思います

16号をこのまま行くと往路と同じ道になってしまうので台地を降りますね
新河岸川舟運の終点、いや始発と言う方が正しいのかな、仙波河岸です
新河岸川の船着き場は当初、東武東上線の新河岸駅付近にありました
ただ川越の中心地からだと結構な距離がありますよね。なぜもっと手前まで来なかったのでしょうか

そうですね
…
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旧浦和市の地名

田島
川の氾濫地域の水没しない高台に島の字を当てることがあります。渋沢栄一の生まれ育った深谷市血洗島もそうですね。田島は班田収授法以来の条里遺構のあるところ。田んぼと高台で田島ですね
曲本
ここで荒川が湾曲、曲がっていたようです
松本
幕末に編纂された風土記稿に浅草の松本小右衛門故ありて当所を預かるとあるので松本さん、人の名前ですね
沼影
沼の北側を指していると思われます。山陰山陽地方の陰ですね。日本海側を裏日本と呼んだり、北側に影・陰・裏などの文字を当てることがあります
内谷
谷の内側と書きますが地名の由来には触れたことがありません。ただ氷川神社のあたりに用水路が集まっていたらしく、政治的にもこの地域「笹目郷」の中心の町でした。笹目郷は近いうちにテーマとして取り上げます
美谷本・美笹
美女木の美、内谷の谷、曲本松本の本を合せて美谷本。美谷本と笹目が合体して美笹です
鹿手袋
もともとはシッテブクロでした、が、平成2年に正式にシカテブクロになっています。袋は川の水の溜まるところ、シッテは尻手、終わりのことをドンジリと言いますよね、袋状の地形の終わりを意味していると思われます
白幡
将門を追う藤原が、という説を多く見かけますが、源頼朝のご先祖、経基の方がしっくりくるのかなと思います。経基が調神社周辺に住われていた武蔵竹芝に恨みを持つのはまあ仕方がありませんwww 武芝襲撃のためここに陣を置き源氏の白い旗を立てた、で、白幡。経基もそのうちテーマにます
六辻
お馴染みの地域名なのに大字として存在しない。尾間木や土合もそうですね。後ほどまとめて触れます。辻は交差点の意味。ここを鎌倉街道が通っていました
文蔵
天正18年、豊臣秀吉が小田原を攻めた天正18年という年号だけはちょこちょこ出てくるので覚えちゃって下さい。天正18年、小田原城落城の後、二階堂資朝という方が文蔵に落ちて来たという記録があるので、文蔵はそれ以前に二階堂氏によって開かれたと考えることが出来ます。文蔵は資朝ないし資朝のお父さんの実名ではないかとのことなので、元はブン蔵だったかもしれませんね
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埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地①】

どもこんにちは、ゴケゴーちゃんでっす
新シリーズ、埼玉県史を考えるヒント。第一回目はココ、東青梅よりスタートさせていただきます!
埼玉県史を、と言ったそばから東青梅? と思われるかもしれませんが、例えば埼玉県と千葉県群馬県の間には大きな川が流れていますが、埼玉県と東京都は地続きの元は同じ武蔵国、文化もさほど変わりませんので、分ける意味はないと思うんですね
そして、埼玉県西部。所沢や川越や富士見や新座などの歴史は、極端な話をしてしまうと青梅から始まっていると言っても過言ではありません

道がスプレー状に広がっていますね
ずうっとずうっと昔、今は青梅の南側を流れている多摩川はこの辺りから、時にはこっちへ、時にはこっちへ、自由に流れていました
その時代に多摩川は、奥多摩の山々から大量の土砂、小石ですね、礫と言います。大量の礫を吐き出し、広大な台地を作りました。こういう地形を何というでしょうか、扇状地、さっすがタモリさん、でお馴染みの扇状地ですね。武蔵野台地です

今回は、この武蔵野台地が埼玉県の歴史にどのように影響したのかを見ていきます
とは言え、武蔵野台地は大きい!
青梅を起点に、扇頂と言いますが、青梅を扇頂とする武蔵野台地がどこまで広がっているかというと
東京の上野に来ました
アメ横は低い場所にあります。武蔵野台地の下です、下町です。が、上野駅や上野動物園は高い位置、山の手にあります。つまりここが武蔵野台地の東側の一つの端。大きい! とてもじゃありませんが全部は紹介できませんので、今回は武蔵野台地の北側、青梅から川越市役所に向かって延びている川越台地を見ていきます。とても興味深い形をしていますので、どうぞ最後までお付き合い下さいませ

国道16号の宮寺の信号に来ました。宮寺の信号は川越台地のここですね、一段低い位置にあります。往路はここから上がったり下がったりしながら川越を目指していきますが、復路は右の道、重要な意味を持つ古い道です、この道を通ってこの場所に戻って来たいと思います
小谷田の信号に来ました。秩父の山並みが美しい、台地の上にいるからこその眺望ですね。それはともかく、元々の古い道はここを右、台地から降りることなく扇町屋へ向かうのですが、16号はどういうわけかここで台地を降ります
16号がなぜこのルートを通るのか。はっきりとした理由は分からないのですが、上を通る訳にはいかない特殊な事情もあった、ような気もしますので、ここは後半触れますね
台地を降り切りました。霞川が流れています。実は霞川は東青梅の駅からずっと一緒です
16号はおかしな斜度で再び台地を登ります。加治丘陵です。武蔵野台地と加治丘陵はもともとは一つの台地だったようですが、加治丘陵側の隆起が大きかったのと、霞川、東青梅から流れていることからも分かるように太古の時代の多摩川ですね。古多摩川の別名を持つ霞川が削ったために、このようなエグい谷になりました。この辺りを高倉と言います、高倉という地名を覚えておいて下さい
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埼玉県初の信号機はどこだ【さいたま市】
どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は、埼玉県における一番最初に出来た信号機はどこだったのか、そしてなぜその場所だったのかを深掘りしていきたいと思います。それではいってみましょうっ

答えから言ってしまうと
与野です
与野の駅前通りと国道17号の交わる交差点、西友のある交差点の信号機が、埼玉県における信号機の初号機です
なぜ浦和大宮川越よりも先なんだ?
という疑問が湧くのは当然ですよね
これについては明確な理由がありそうなので、与野さんにご説明頂きたいと思います
(うい)まあ簡単に言ってしまうとだな、それはわが町与野が、自動車の街だからだ
自動車販売会社の始まりは昭和10年の関東モータースだ。今の国道17号が開通したばかりだった、主にシボレーの乗用車とトラックを扱っていたな
次に昭和12年の埼玉トヨダ、トヨタじゃねえぞ、ダだぞ
続いて昭和14年のダットサントラック、昭和18年埼玉日産自動車、21年埼玉トヨタ、23年埼玉日産モーター、埼玉三菱コルト、今の関東マツダ
埼玉スバルの前身となる埼玉ラビットというのもあったな、スクーター屋だ
もちろんこれは極々一部だ、自動車販売店が集まれば、板金屋、保険屋、看板屋、内燃機屋、部品商なども集まる
トラックの荷台の幌を作る、シート屋なんてのもあった

トラックの幌というのは業種によって仕様が様々で、例えばココに穴を開けてくれとか、自動車販売店では対応出来ないことも多かったのだ
詳しいな…
…
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粕壁中学校と県北勢の野望【埼玉三國志⑦】
当初より私は、熊谷・浦和・川越、3ヵ所への中学校設置案を推していたが、県の提案は1校であり、県の財政からいってもこれを3校に改めさせるのは困難である考え2校案に賛成した。しかし県内の入学志望者の全てを熊谷と浦和の2校に収容することなど出来るであろうか。私は昨年の県会で改めて川越と粕壁への設置を提案し、そしてその提案は、ここにいる県議の皆さまの満場一致を持って決議されたはずであるのに、それを今更
廃棄するとはどういうことか!

どもこんにちは! ゴケゴーちゃんでっす
早速ですが今回は「第65話 浦和民には手を出すな! 後編」で取り上げた
旧制浦和高校、及び熊谷高校の
設置をめぐる争いの前哨戦である「中学校設置」についての問題から、あれよあれよと県庁所在地争奪戦へと繋がっていく、私も第65話を書いた時はまったく知らなかったエピソードをお送りさせていただきます。
特に川越高校・春日部高校の在校生・卒業生の皆さま。皆さまが今日も立派に学業、そしてお仕事に励むことが出来ているのは、明治30年のこのわちゃわちゃがあったから
授業で教わっているかもしれませんが、まさか県庁所在地には触れてないやろ思いますので、どうぞ! 最後までお付き合い下さいませっ

すったもんだの末、浦和と熊谷、2校の設置は決定しましたが、県全域にわたる教育の普及は二校だけでは到底足りるものではありませんでした。しかし頻繁に見舞われる水害により県の財政は甚だ困難。3校目4校目などとんでもないという意見もまだまだ多くありました。
浦和熊谷の開校もまだであり学校がどれほどの実績をあげるかも分からない。2校の増設は無謀である!
治水、堤防、道路等のために多大の支出を要し、しかもこれらの事業はようやくそのスタートラインに立ったばかりだ。教育機関の増設は県民の意思に反し、そして時期尚早である!
来年2月に県議員の選挙がある。所詮は選挙区に対するお土産案なのであろう

選挙に当選するためにやってんだろうと言うことですね。粕谷がこのような容赦のない侮辱を浴びせかけられた背景には「党派」の争いがありました。前回までは
元熊谷県の県北派
旧埼玉県の県南派…
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浦和の哀願書【埼玉三國志⑥】
以上が加藤が急飛脚で送ってきた書状の全てだ
県庁の熊谷移転はもう内定しているということですか!?
あとは内務大臣山縣有朋の決裁を仰ぐのみ、ここにはそう書いてあるな。いずれにせよ事態は急だ。オレは東京にいる加藤に会って事の進捗を確認してくる。皆は県議への働きかけと、玉蔵院だ、町内の有志に玉蔵院に集まるよう段取りをしてくれ
これは浦和の存続、いや
浦和滅亡の危機だ
皆も腹を括って事に当たって欲しい

県知事を抱きこみ挑んできた熊谷の前に、浦和はついに崖っぷちに追い込まれることになりました。
今回はその顛末を見ていくのですが、その前に少しだけ振り返りをしておきますね。
浦和は大宮と岩槻から、言葉は適切ではないのかもしれませんが
県庁をブン取っています。
この件について浦和市史は
えー、そんなことあったっけえ?
これくらいのテンションです。
しかし今回取り上げる熊谷との件については、多くの資料がわずか数行で書ききっているにも関わらず

数ページを割き熱量たっぷりに記録を残してくれました。
殴った方は忘れてしまうけど、殴られた方はずっと覚えている
ま・さ・に、コレですねwww
それでは!
浦和は熊谷に殴られた
明らかそう考えているであろう浦和の残した戦いの記録。そして、その中に垣間見える
…
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