新政府軍、飯能へ【飯能戦争⑪】
慶応4年5月18日。
飯能に到着した振武軍は村役人を呼び、宿舎をすべて寺にすること、僧侶、村民が飯能の外へ出ることを禁止する旨を申し伝えると共に、飯能の各出入り口を封鎖、戦争が間も無く始まるという緊迫感をいよいよ具体的なものに変えようとしていました。
大村益次郎は20日、備前藩を川越へ、大村藩、佐土原藩、筑前藩、筑後藩を青梅に向けて出張させます。出張の目的は言うまでもありませんが、彰義隊の残党と振武軍の討伐。筑前藩の残した手記の言葉を借りるなら
賊どもの皆殺し!!
という訳で今回は、喜作たちを「皆殺し」にするために飯能へ向かった新政府軍各藩の紹介と、それぞれの進軍ルートを見ていきます。
イラストのモデルに「女の子」を起用しましたが、女の子が戦場に赴くことを助長する意図は一切ありませんので、その点をご理解いただき、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。
岡山県からお越しの備前藩のみなさんです。遠いところお疲れ様でした、ようこそ埼玉へ!
備前藩は「戸田の渡し」に配置されていた別動隊50名を吸収、ららぽーと富士見付近で彰義隊の残党4名を斬首 9名を射殺し川越に入ると、賊どもが扇町屋ではなく飯能に集まっていることを知らされ川越藩と共に黒須へ向かう、とあるので国道16号の旧道でしょう。今も往来の多い、あの細い道を通って黒須、そして扇町屋に入り大村藩らと合流しました。
隊服にストライプの入った水色のめっちゃ可愛いズボンを着用しておりますが、これは備前藩が特別ハイカラだった訳でもセンスが良かった訳でもなく、たまたま立ち寄ったアメリカ系の古着屋で見つけてまとめて購入した、的なものだったようです。南北戦争の中古品ということなのでたぶんブカブカだったでしょうねwww
大村藩は、備前藩の出発した翌日、佐土原藩、筑前藩、筑後藩と共に青梅へ向けて出発。その日の午後、備前藩と同じく賊どもが青梅ではなく飯能に集結していることを知らされ、翌22日、扇町屋着。川越からの備前藩と合流し、飯能攻めの配置決め等を行いました。
3万石に満たない小藩ながらも相当に鍛えられていたらしく、戊辰戦争の主な戦場には常に彼らの姿がありました。
飯能戦争では、備前、佐土原、筑前などを大村藩隊長の渡辺清左衛門が指揮。
この方は後の福島県知事を務める方でもありますので、この機会に名前だけでも覚えておきたいなと思います。
佐土原藩は先ほどの配置決めにより、入間川を笹井で渡り、野田を通って飯能の正面を突く、飯能攻めの先鋒としての役割を任されました。
笹井河原の戦いでは、一番砲隊が散弾を5~6発放ったとあるので、大砲を専門に扱う部隊が存在したのでしょう、奇襲を狙った平九郎の隊に大きすぎる損害を与えています。
佐土原藩については次の次の次のブログでがっつり取り上げますので今日のところはこれくらいにしておきますね。
福岡藩(筑前)は大藩に相応しい2千名以上の兵を動員させ、房総、北関東、奥州、羽州の各地で激戦を展開しました。
飯能方面には約150名を派遣し、これに久留米(筑後)の兵も合わせた一部が、八王子方面への道を塞ぐために直竹へ。一部が秩父への退路を断つために鹿山へ。そして一部が東吾野
つまり、主に飯能の出入口を封鎖する役割を担っていた
のかと思いきや
備前・大村とは野田で分かれ、双柳より飯能の側面である中山へ向かったという記録があるなど、戦争ですから状況はいろいろと複雑だったんでしょうね。ここまで書いておいて何なのですがブログじゃとても伝えきれないと思えてきました。詳しく知りたい方は図書館にでも行って下さい(投げやり)
隊服は備前同様コレといったものは特になく、江戸へ向かう途中の横浜開港場で中古品を購入、洋式が進んだものと思われます。
備前藩の隊服しかり、大村藩のスナイドル銃しかり「横浜でグレードアップする」というパターンはどこの藩にもあったようですね。
広島藩は上野戦争の前日の14日に江戸を出発、21日まで忍(行田)に滞在しています。
行田で何してたん?
そうですよね、上野から遠く離れた行田に何の用があったのか、疑問ですよね。
これは備前藩の別動隊が「戸田の渡し」に配置された理由と同様に
彰義隊の退路を断つ!
ためでした。
行田に網を仕掛けてから戦争を始める大村益次郎。改めて恐ろしい男だなと思いますが、それはともかく、広島藩は22日に川越に入ると、賊どもが今市村の法恩寺に着陣しているとの報を受け、忍藩兵と共に
越生へ向けて出発します。
この件についても後ほど詳しく取り上げるのでここまでにしておきますが、平九郎と官軍を出会わせてしまうきっかけを作った「賊ども」とは、すでにブログに登場している人たちです。もちろん彼らも必死だったでしょうから責めることは出来ませんが、平九郎も先を急がなければ、という気はどうしてもしてしまいますね。
他、鳥取藩、薩摩藩、延岡藩、柳川藩、前橋藩。また「あんたがったどこさ肥後さ」はこの時に作られたわらべ唄という説を採用するなら熊本も居たはずなのですが、目立つ動きが確認出来ませんでしたので今回はスルーさせていただきました。
最後に我らが川越藩と忍藩のみなさんです!
川越藩と忍藩の主な役割は
道案内でした。
そりゃそうですよね。宮崎県民やら長崎県民やらが道案内もなしに埼玉でわちゃわちゃ出来る訳ありませんものね。