埼玉県史を考えるヒント【武蔵野台地②】
川越警察署にいます
周りには田んぼしかないですね。ここは荒川低地だからです
それでは川越台地復路! 行ってみましょう
16号は坂道をダーっと上がり川越台地に復帰します
富士見、往路にもありました。高台にありがちな地名です。現在は富士山ではなく伊佐沼の花火大会がよく見えるということで人気ですね
この辺りには古墳がたくさんあります。16号から見えるものだけ紹介しますね
先ずは右側、運転をしながら探すのはおやめ下さい
氷川神社古墳
次左側、愛宕神社古墳
そしてまた右側、浅間神社古墳
仙波古墳群と言います
古墳というのは、わざわざ見に行っても面白いことはあまりないのですが、古墳があるということは、その時代にそこに人が住んでいたということなので、地形的に魅力のある場所であることが多いんですね。渋沢栄一の手がけた日本で初めての住宅街「田園調布」にもどデカい古墳がありますよね。仙波も豊富な湧水のある、かつ、天気の良い日は筑波山まで見渡せる、とても良い所だと思います
16号をこのまま行くと往路と同じ道になってしまうので台地を降りますね
新河岸川舟運の終点、いや始発と言う方が正しいのかな、仙波河岸です
新河岸川の船着き場は当初、東武東上線の新河岸駅付近にありました
ただ川越の中心地からだと結構な距離がありますよね。なぜもっと手前まで来なかったのでしょうか
そうですね
川は地域の一番低いところを流れている、川は台地を登らないからですよね
それでも、降ろした荷物は川越の街まで運ばなければなりません。陸路であっても川越台地は立ちはだかります。うとう坂です
坂についてはこの後詳しく説明しますが、ここはよほどの難所だったのでしょう。明治になり川越商人は仙波河岸を開設し、うとう坂を避けるルートを開きました。こちらの坂はその時に作られた切通しです
川越藩の意向など、地形以外の理由もあったようですが、新河岸から仙波までの僅かな距離を延長するのに百年単位の月日を要していますので、仙波河岸の開設は想像するよりもずっと難易度の高いテーマだったのかもしれません
岸町です。岸の字の付くところはだいたい崖に面しています。南区根岸、狭山市根岸、朝霞市根岸台、台東区根岸も武蔵野台地と低地の境にありますよね。根は根っこの根、山の麓を意味していると聞いたことがあります
岸町横穴古墳群です
ウトウという地名の由来になっている説があります
ウトウ 巣
で画像検索してみて下さい
川越所沢線に合流しました。久保川という小さな川の作った谷を超えて川越市中台、八雲神社も古墳ですね。ここからヤオコーに向かって台地を降りる、前にここまでのルートをおさらいしておきますね
川越警察署を出発しました
仙波古墳群、仙波河岸、うとう坂を見て、岸町、久保川、カワトコ線で中台、ヤオコーに向かって台地を降りて
今福です
復路の、いや、川越台地の見どころは、私はこの今福からであると感じています
往路も含めここまで、まるでジェットコースターのように台地を登ったり降りたりしてきました
しかし今福は、スタート地点の宮寺の信号に一本道で繋がっているのですが、その宮寺まで
なんと、坂が
一か所もありません
平坦です
まっ平です
中新田です
ここに、この道が坂を避けた理由のヒントがありました
江戸時代の初期に新河岸川舟運が開かれ、そこへ向かう道が新河岸街道と呼ばれていました(抜粋)
この道は、狭山入間所沢、遠くは箱根ヶ崎や青梅などからの荷物を新河岸川の河岸場に運ぶために整備された河岸街道なんですね
唐突ですが川越街道254の旧道から朝霞警察署を見ています
多くの旅人を悩ませた古い街道の難所と呼ばれる坂道は、自動車の普及に伴い削られなだらかになりました。しかしここは
川越街道
川越街道の旧道
川越街道の旧道の旧道が残ってるんですね
結構な角度です
うとう坂しかり、難所と呼ばれる場所は、どこもこれくらいの傾斜があったのかなと思います
港区の赤坂に来ました。赤坂とは赤土の坂という意味です。この赤坂に牛鳴坂と呼ばれる場所があります
赤土の坂ですから雨が降れば、ぬるぬる。荷物を背負った牛にとっては泣きたくなるような坂だったのでしょう
武蔵野台地は火山灰由来の赤土、関東ロームに覆われています
この道は荷物の運搬を容易にするため、徹底的に坂を避けて作られたということですね。新河岸川に繋がる平坦なこの道が整備できたことも、川越発展のひとつの大きな要因になっていると思います
川越台地はベロのような形をしています。舌状地形と言います。その形がイチバン分かりやすいのはこの辺り、不老川まで下がりました
この形は不老川が作りました。ということは、不老川も太古の時代の多摩川。古多摩川ですね
古多摩川は霞川と不老川、もうひとつ多摩地区を流れる野川、柳瀬川が含まれることもあるようです
狭山市堀兼です
1333年5月、鎌倉を攻めた新田義貞は分倍河原で大敗、ここ堀兼まで退却しました
なぜ堀兼だったのか
井戸、飲料水の確保が出来たから、と考えるのが自然ですよね
関東ロームは火山灰由来、灰なので水を溜めることが出来ません
その下には多摩川の運んだ礫があります。礫も小石ですから水を溜めることが出来ません
水を溜められないので田んぼを作ることが出来ない、だけでなく武蔵野台地の中央に位置する狭山市堀兼周辺は関東ロームと礫の層が分厚く堆積しているため、井戸を掘るのも難しく飲み水にすら苦労しました
入曽にある七曲井戸で説明しますね。この辺りにある古いタイプの井戸は、皆「すり鉢状」のこんな形をしています
水の出る粘土層まで掘ろうと思うと、こう掘ると礫が崩れてしまうので、こう掘ってこう掘ってこう、どうしてもこの形状になるからです。こちらのタイプの井戸が掘れるようになるのは江戸時代に入ってからのこと
堀兼の地名の由来に井戸を掘るのは大変だ、で「堀難い」説がありますが、万葉の旅人が度々「堀兼」を題材に歌を詠んでいるのは、狭山市の過酷な自然環境、旅の難所、そこにまるでオアシスのように存在した堀兼の井戸が、彼ら彼女らの琴線に触れたからなのだと思います
水野は平安時代の歌人の詠んだこの歌のこの部分を、玉川上水野火止用水建設を指揮した安松金右衛門が抜き取り命名しています。野火止用水の時代まで地名が無かったということですから、それまでは人の住めない未開の原野、及び草刈り場だったということですよね
この辺りをハケ下と言います。ハケとは崖です。ここが川越台地の崖に面しているということです
狭山市のハケはこう書きますが、漢字のハケにはさまざまな仕様があるので書く場合はカタカナが間違いないのかなと思います。赤土の「赤」をダブル。狭山市のハケがイチバンかっちょいいですね
南入曽のローソンです。往路で「16号が台地を降りるのは特殊な事情があるから」ではないか、という話をしましたが、ここにその根拠があります。台地に登りますね
※動画
基地の真下に首都圏の大動脈を通すわけにはいかない
実際、昭和33年7月、入間基地の北側に面する狭山市入間川に、米軍ジェット爆撃機B 57が墜落、少年二人が犠牲になりました。不時着、部品の落下、滑走路のオーバーランなどを含めると、米軍基地時代の入間基地はかなりの数の事故を起こしています
防衛施設周辺地域の生活環境等の整備に関する法律というものがあるので、それを読めば良いのかな思うのですが、読んでおりませんので、16号が魔のカーブを通るのは入間基地を避ける必要があったから。今日のところはそういうことにしておきます、違っていたらごめんなさい
ちなみに滑走路の南側、カメラ小僧がわらわらいるところ、下ってますよね。滑走路の北側もこの崖です
滑走路の長さが、まさに川越台地の幅、そう思っていただいて間違いありません
もうひとつ、入曽の地名の由来。鎌倉時代、ものすごく達筆な方の書いた入間の文字を書き写す際に
入曽と誤写してしまった、ことが起こりという説があります
入間市下藤沢です。国道463、珈琲館のあるところ。ここは台風19号の時、不老川が溢れ通行止めになりました。しかしそのすぐ西側。新田義貞も駆けた鎌倉街道があるのですが、こちらは水没しませんでした。今回の河岸街道もそうですが、古い街道を歩くときは、なぜ先人はこの場所に道を通したのか、という視点があると捗るものがありますね
ゴールの宮寺はもうすぐです!
セブンイレブン上藤沢北店の下、ここに地層の観察のできる場所があります。下から礫、多摩川の流れていた跡ですね。その上に関東ローム、で、黒土、葉っぱなどが堆積して出来た地層ですね。1センチの厚さの黒土が出来るのにだいたい100年かかるというのを聞いたことがあるので、ざっと五万年くらいでしょうか。今わたしテキトー言ってますけどねwww
入間のアウトレット。渋滞を避け、下からアプローチされる方いらっしゃいますよね。この落差が川越台地の落差です
というわけで宮寺の信号に到着しました!
今福から宮寺まで、河岸街道という視点がなければ平坦であることにさえ気付かないただの道ですが、東京都瑞穂町の資料の中に、この道を「川越街道」と記したものがありました
川越青梅間の開通は1614年。川越大火(1638年)の20年以上も前にすでに人の往来があったというと「あれ、新河岸川の舟運て火災で消失した仙波東照宮の再建をきっかけに始まったんじゃなかったっけ?」新たな疑問が生まれたりもするのですが、それは置いといて、このルートの歴史と役割を知ることで、国道16号の景色もまた少し違って見えてくるのかなと思います
最後にもう一つだけ
今福から宮寺まで坂がないと言いましたが、あれはウソです
宮寺の標高はアプリ調べで120メートル。今福は19メートルです
台地というとパンケーキのような形をイメージしがちなのですが、実際はこう。つまりずっと坂でした
パンケーキのイメージだと、武蔵野台地の下を流れる多摩川の水が、玉川上水を通って、どうして台地の上にある江戸に届くのか、ちょっとナゾいですよね。こうですよね