県北派と県南派【埼玉三國志⑤】
明治9年8月、竹井らの努力も虚しく熊谷県は廃止。ほぼ現在の県域の埼玉県が成立するのですが、埼玉県と熊谷県では行政の仕組みもまるで違いましたので、吸収された形の旧熊谷県側は、そりゃあ
面白くはありません。
抵抗意識という名の炎をメラメラ燃やすことになるのは当然の成り行きでした。
というわけで今回は「県庁奪還」を誓い団結することになった旧熊谷県派、すなわち
県北派と
浦和を中心とした
県南派の
衝突を見ていきます!
が、その前に、ちょうどこの頃はほとんどノープランでスタートした薩長政権が、やっとこさ国としての体を成し始める時代。背景をなるべく簡潔に説明させていただきますのでほんの1000文字ちょっとだけお付き合い下さいませwww

先ずは明治6年秋、征韓論に敗れ国へ帰ることになった西郷隆盛と、見送る板垣退助の間でこのような会話が交わされました
西郷さん、オレは言論によって国会をたてることを一生の仕事にする
板垣どん、言論なんぞでそんなことは出来やせん。今の政府を倒すことが先だ

西郷の言う「政府を倒す」とは、言うまでもなく西南戦争なのですが、その前段で起きた佐賀の乱において大久保利通は
江藤の首を晒し
その首を写真に収め
大量にコピーをし
全国の役所に貼らせるという現代の感覚でなくても恐ろしくサイコパスなことをしてしまいました。
この大久保の行為について
政府の残忍性を助長するだけだ
憤慨し、また写真を速やかに取り除くよう指示した男こそ!

政府の役職と熊谷県知事を兼務していた河瀬のこのエピソードからも彼の優秀さと人柄が伝わってきますよねって、ごめんなさい、いきなり話が逸れましたwww
板垣の言う「言論によって国会をたてる」とは、つまり自由民権運動です。
自由民権運動とは、国会や憲法を作ることで納税や徴兵など、国民の義務に見合った権利、または参政権を保証するよう政府へ求め、実現を目指した運動です。
ちょっと分かりにくいですよね
なので司馬遼太郎先生の分かりやすいお言葉を引用させていただきますね
薩長だけが政治を独占するのはダメだ。オレたちも混ぜろ
もう一つ
薩長に外された不平士族や教養と財力をもつ豪農たちが、薩長の専制政府にハイハイと言いなりになっている方が異様である

大河ドラマなんぞを観ていると事あるごとに西郷どんあたりが
この国の民が腹一杯食えるようにとか、この国は変わらなきゃいかんなどなど
キラキラしたセリフをほざきやがるじゃないですか
あんなん全部ウソですよ
特に埼玉県は明治9年からの地租改正にやられました。
江戸時代までの年貢というのは、五公五民というのを聞いたことがあると思いますが、藩や地域によってそれぞれ税率が異なっていました
しかしそれが藩や天領が消滅したことで(廃藩置県)全国一律の税率に改定。同時にお米等で納めていた年貢が「金納」つまり現金に改められてしまいます。そしてこれにより埼玉県は
全国二位の増税県
となってしまい、後に勃発する秩父事件の一つの火種もここに生まれることになりました。
埼玉県中に充満した不満は自由民権運動を原動力にして、明治政府、そして埼玉県へと向けられていきます。埼玉県はその不満をかわす目的もあったと思います
県と町村の間に「郡」を設置
郡の長に地元の名主・豪商らを指名し、彼らに税金の取り立てや徴兵の促進などの責任を押し付けていきました。

郡が設置され、そこにリーダーが置かれれば、リーダー同士が集まり情報の交換をするような場が当然必要になってきます。
この集まりが後の
県議会へと発展し
そして、郡をひとつの選挙区にして
議員
と呼ばれる地域の代表が誕生することになりました。
とは言え埼玉県は「地元の人材を起用」という開明性を装いながらも、県内の豪農豪商を支配体制に組み込むことで、より強力な官僚機構、そして人民束縛の実現を目指していましたので、県議会に大きな権限を与えることはしませんでした
それでも!

県民の声を政治に反映させることが出来るであろう!!
県議会の開設は
彼ら県北の人々に
格好の活動場所を提供することになっていくのでした!!! ゴホッ!!!

おい加藤!!
おまえ埼玉県庁の熊谷移転についての申請許可が出ているが知っているのか!!

そうか、やはり何も聞かされてないないのか…
吉田知事の独断らしい
しかも熊谷は県庁の移転はもう決定だと
引越し業者に見積もりの依頼もしているらしい

県議会を通さず浦和にも知らせず、独断で県庁の移転を決定するなどありえん話だぞ。県庁の位置について揉めている県は他にもあるのだ。もしこれを許せば埼玉県がとんでもない前例を作ってしまうことに… おい、加藤?

なんだお前、心当たりがあるのか
心当たりという訳ではないが、吉田が県議会を、いや、オレをスルーするのは分からなくもない
まったくお前という奴はあちこちに敵を作りおってからに。何があったんだ、話してみろ
ダメだ、今は内務省だ。それにこの話はちょっと長い

大丈夫です加藤さん!
この話も前・後編に分けました。あ、はじめまして。150年後の埼玉県所沢市からやって参りましたゴケゴーちゃんと申しますっ
確かにこの件で加藤さんは敵を増やしてしまいました。けれど私は加藤さんは間違っていなかったと思います! 尺は取りましたのでサクッとまとめて話をしてはいただけないでしょうかwww
そこまで言われちゃ仕方がないな。よしっ、サクっとまとめてしんぜようwww

5年ほど前のことだ、埼玉県だけではなく全国の問題として
備荒貯蓄(びこうちょちく)
というものがあった。主な趣旨は、凶作に遭遇した場合の飢餓救助のための「備蓄米」の保存をどうするかだ
この言わば国策に対して、県会議員になったばかりのオレはこう意見した

オレの反対理由の背景には当時の深刻な貧困問題があった
米の貯蓄には倉庫が必要だ
倉庫の建設費用は誰が負担する?
また県民に押し付けるのだろう
ただでさえ重税に喘ぐ県民にこれ以上の負担をかけることは出来ない。また、米の場合、害虫や劣化、新旧の入替、米価の変動など管理の負担もある。物貯蓄は金貯蓄に修正すべきだという確信をオレは持っていた。

いい話じゃないか加藤
そうなんですよいい話なんですよ。でもここからが良くも悪くも加藤さんなんですよwww
そう、ここからが自分で言うのもなんなのだが、オレがオレたる由縁なのだっ
オレの現金貯蓄論を吉田は

という理由で拒否をした。
オレは吉田ではハナシにならぬと
備荒貯蓄を起草した内閣書記官の自宅を直接訪ね、現金貯蓄論を披露
埼玉県は現金貯蓄でも良いのではないか
なんと! 政府の許可を取り付けてしまったのだwww

加藤、おまえの現金貯蓄論はまったく理にかなっている。しかしやり方が乱暴すぎるな。それでは敵が増えるのは当たり前だ
いや、それは違うぞ。何故ならこの時点ですでに県議会は
県北派と県南派がバチバチの関係にあったのだ

埼玉県議会の初代議長は熊谷の竹井、同じく副議長も熊谷市胄山の根岸だった。立案委員も組合幹事も、北足立が一人いたが、ほぼ全てが旧熊谷県派、つまり県北派に占められていた
県北の連中が議会の中心に居座ったため、道路、学校、産業など、県の予算案はことごとく県北に有利に議決していった

どうして役員のほとんどが県北派に?
議員に選出される条件の一つに「地租を十円以上収める者」というのがあったのだ。養蚕地帯である県北には高名な高額納税者が多かった
そしてもうひとつ
妻沼に移り住んだ漢学者「寺門静軒」の教え子が多かったというのもあったと思うな。実際、県北の連中はみな学識があったし、弁の立つ者も多かった
加藤さんは県南派なのに県北の人のことをあまり悪く言わないんですね。ちょっと意外でした

オレは県北有利の議案を片端より潰していった
やがて県北派は県知事を抱きこみ攻めてくるようになったが、それもオレは千切っては投げ千切っては投げ廃案に追い込んでいった。明治17年には7件もの議案を再議案送りにしてやったわいwww
話は分かった。しかし加藤、この備荒貯蓄がどう今回の話につながるのだ
吉田は県庁を熊谷に移すことで我々県南派の勢力を削ごうとしているのだ
そして熊谷と吉田は本気だ

ありえん話だとおまえは言うが、周到に仕組まれた申請許可であることは間違いないだろう
とりあえず内務省だ
内務次官に会って話がどこまで進んでいるのか確認してくる。

備荒貯蓄の少し後くらいだったのかなと思います。すっかり寂れてしまった足立郡の小さな宿場町に大きなニュースが舞い込んできました。

ドンドンドンドン、ガチャ、バタン、お、おい!
なんだバカヤロうるせえなあ、バタバタ走んなって言ってんだろうが!
なんだおまえまた昼間から飲んでんのか、ああまあいいや、あのおま岩槻がな、あの、岩槻があ
岩槻岩槻うるせえな! 岩槻なんてどうだっていいんだよっ
すまんすまんオレも慌てちまった、まあ聞け、あのー、岩槻がなあ
