熊谷県の始まりと終わり・後編【埼玉三國志④】
おう! みんな張り切ってやってんなっ ああ、そのままそのまま、仕事を続けてくれい

建白書を見せてもらった
いやあ、まっこと見事な建白書だった
特に小泉くん、あれ君の字だろ?
素晴らしい清書だった。字が綺麗だとそれだけで印象がグッと良くなるんだ

というわけで今日は、熊谷県の実現に向け邁進する君たちに、良いニュースとちょーっとだけ悪いニュースを持ってきた。あー、大丈夫だ、悪いと言ってもオレ個人の問題だ、君たちにはあまり関係がねえ。心配すんな
ではまず良いニュースだが
君たちの建白書は朝議に上がった
目下詮議中だ。竹井、この機を逃すな。今すぐ上京し陸奥を押せっ
そして、悪いニュースだが
実は、わたくしめ渋沢栄一は、この度、大蔵省を
辞めることになりますた!

いやいやいやいや、渋沢のやつ、言い出しっぺのくせに肝心なところで政府の高官という立場を投げ捨ててしまいましたぞ。あどもこんにちわ、徳川家康です
以後彼は銀行の設立などに多忙を極めるのでしょう、この物語には登場しないのですが、私の方はもう乗りかかった船です。前回に引き続き解説を担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いします
それでは、竹井と熊谷の汗と涙の物語、後編ですっ

改めて聞くが、県庁が熊谷に設置された場合、県庁舎と官員の住居等は差し支えなく用意出来るのであろうな
はい、県庁舎はとりあえず熊谷寺の庫裡(くり)を充用すべく準備を進めております。官員の住居は空き家がございますので十分に間に合うでしょう。何も心配はございませんので、この件、何卒ご尽力のほどよろしくお願い致します

空き家探しは竹井らが熊谷に戻ったその日の夜から始められ、朝までに38軒を確保したとあるので、もしかしたらこれが熊谷に課せられたが最後の宿題だったのかもしれません
明治6年2月、入間県の権令が福岡に移動。印旛県の県知事を務めていた河瀬秀治が、群馬県と入間県の県知事を兼務するという人事が発表されました。
そして明治6年3月15日
明治政府は、入間・群馬の両県を廃し
熊谷県を設置することを発令
ここに84万石を有する熊谷県が誕生します。

隣接する埼玉県が40万石であることを考えると、熊谷県がいかに巨大であったかが分かろうかというものなのですが、しかし熊谷はここからが大変でした
先ずは熊谷寺の県庁舎ですが、幕末に本堂が焼失し、そのままだったんですね。川越藩の御殿の一部を移築するなど大きな工事が必要となりました
県知事邸には竹町(現鎌倉町)の和泉屋清蔵の住居を充て、官員の住居は空き家だけでは到底足りなかったので、相当な数の熊谷市民宅の「空いている部屋」を借用しそれに充てました

他にもなにせ県庁所在地ですから裁判所や学校、その他もろもろ。設備の準備についての記述には「非常な混乱を極めた」という文言が残されています。
しかしそれでも熊谷民の喜びようは一通りではありませんでした。ちょっと良いエピソードが一つ残されているので紹介させていただきますね。

河瀬県知事がいよいよ熊谷に赴任するという日、熊谷民は有志はもちろんチビっ子までもが荒川の船着場へお出迎えに行きました。しかし予定の時刻になっても県知事らしき人物はやってこない。すると町から使い者がやって来て言いました
県知事がお着きになりましたので皆さんもお戻り下さい
ハテ不思議だ、それらしき人物は降りてこなかったし、ここまで一本道だ、どうしたって見失うはずがない
しかしよくよく聞くと河瀬は「馬車」でやって来たという

徳川様の時代なら10万石の大名ですら「下にぃ〜下にぃ〜」通行するのに、84万石を預かる熊谷県知事ともあろうお方が馬車。なんとまあお手軽(カジュアル)なことかwww
実際、河瀬はすこぶる平民的な人柄で、在職中は誰彼の差別なく面会をしたのでとても評判が良かったそうです。
熊谷は大金を投じ三階建ての県知事邸を竹町に新築
しかし、その完成を待たずして河瀬は内務大丞に栄転、熊谷を去ってしまったため、新築の県知事邸には河瀬の後を次いだ楫取素彦(かとりもとひこ)が入ることになる、のかと思いきや、そうはならなかったのだな、竹井くん
はい、楫取ははっきりとした理由は分からないのですが、我々が大変な思いで金策をして建てた官舎には入らず、石原の志村医院におりました
何故だろうか
う〜ん…

もう一つ分からないことがあるのだが、楫取は県知事ではなくナンバー2である権令というポジションで赴任をしているな。これは何故だろう
う〜ん、何故でしょうねえ
思うに奴は熊谷県を解体するために送られた刺客だったのではないか?
先ず、奴が石原から出ないということを竹井くんはどう感じたよ
まあ正直おもしろくはなかったですね

明治の大合併のとき埼玉県内の町村はざっくり1900から400になった。町村の合併というのは、地理上の問題、財政の問題、次いで町村の名称、水利関係や生活圏の問題、どこも異議申し立てが相次ぐものなのだが、その中でも特に新聞雑誌に大きく報じられ、裁判にもなり、長期間にわたり争った地域があったな。どこだろうか
く、熊谷と石原ですね…

熊谷と石原は理由までは詮索しないが関係が極端に良くなかった。それを利用して奴は君ら熊谷の中心メンバーと距離を取った。実際竹井くんも次第に石原に足が遠のいたと回想しておるな
あのすいません。さっきからヤツヤツって、家康さまは楫取のことがお嫌いなのでしょうか?
ああ嫌いだね。奴は吉田松陰のバディみたいな男だ。いろいろ突き詰めていくとやはりこいつらが諸悪の根源だ
楫取の奥様は吉田松陰の妹さんですものね
しかも二番目の奥方も久坂玄瑞の未亡人、つまり二人とも吉田松陰の妹だ
なるほど、それはアレですねwww
しかし家康さま、楫取は何のために熊谷の我々と距離を取ったのでしょうか

おう、武香くん、お父さんは元気にしておるかね? お父さんは惜しかったな。もうちょっとだけ京都に残っていれば、たぶん初代新撰組局長だったぞ。そうすれば武香くんも吉見百穴だけではなかったなwww
オレは吉見百穴だけじゃないですよ! 他にも色々やってますよ!
そうかそうかwww
熊谷県が成立した際、君たちは政府に「6年間は熊谷に県庁を置く」ということを約束させたな。まあ結局は反故にされる訳だが、あれは何故だ。なぜ期間を盛り込んだ
埼玉県と入間県を合併させようという動きがある、と渋沢が言っていたからだったな、竹井
そうだ。埼玉県と入間県が合併をすると、熊谷は地理的に県域の中心ではなくなる。県庁は浦和か川越に持っていかれるだろう。だから期間の確約をとって県庁を維持しようということになったんだ

それだ。明治政府は埼玉県と入間県を合併し現在の埼玉県の原型を作ろうとした。しかし群馬県までもを合わせる訳にはいかない、何故だか分かるかね
デカすぎですよね
そうだデカすぎるwww
しかし家康さま、明治政府はなぜ埼玉県と入間県を合併させようとしたのでしょうか
明治5年だからちょうど君たちが活動を始めた頃だな。埼玉県と入間県の連名で提出された意見書の中にこんな文言を見つけたのだ
其県力ノ大小強弱ニ任セ造築方官費民費等各種ニ変
つまりはこうだな。荒川左岸の埼玉県と、荒川右岸の入間県が別々に堤防の工事をしていては真の治水対策が立てられない。荒川を含む県を作ることが治水対策の根本をなす、ということだな
ご、ごもっともですね…
奴が石原から出なかったのは憎まれ役を買って出たため。奴がナンバー2なのは入間県をすんなり埼玉県に吸収させるため。埼玉県知事白根多助は長州、楫取も長州、白根は楫取のセンパイに当たるのでここは自然な流れではなかろうか

熊谷県はわずか3年で唐突に廃止が宣告されました。廃止の理由は判然としておりません。しかし、そのきっかけが明治5年にあったとしたら、我々の努力は徒労であったということ。若干の虚しさを覚えますね
竹井くん、根岸くん、それは違うぞ。これは私の感じるところであるが、君たち熊谷は強くなりすぎたのだ。県庁所在地となった熊谷はそれこそ旭日昇天の勢いで、入間・群馬から移住してくるも多く、加えて官民の出入りも頻繁になった結果非常な賑わいを極めた。この分で進めば数年の後には必ず一大都市を形成するであろうと想像された。明治政府はそれを嫌ったのだ
しかし強くなることは決して悪いことではなかった。現に君たちは行き場を無くしたエネルギーを沸々と県北の大地に溜め込んでおるではないか

