花一揆と児玉党のうちわ【所沢市】
所沢の三ヶ島に
えびらの梅
と呼ばれる一本の古ぼけた梅の木があります。
なんの変哲もない、誰も振り向かない、それは地味〜〜〜な梅の木なのですが、実はこの梅、見た目の地味さからは想像も出来ない
ド派手!
なエピソードを持っていたりしますので、今日はこの梅の木の持つ伝承について見ていきたいと思います。
えびらの梅を語れるのは所沢っ子の自分しかいない。そう自負しておりますので、またまた長くなってしまう予感がしますがどうぞ最後までお付き合いくださいませ!

案内板が設置されているので先ずはそちらから引用しますね。
箙(えびら)は、矢を入れて背負う武具の一つです。箙の梅は、1352年、群馬県で挙兵した新田義興らと足利尊氏らが小手指ケ原で一戦を交えた際、足利方の饗庭命鶴丸(あえばのみょうつるまる)を大将とする一隊がこの地の梅の枝を折り、鎧や箙に差して戦ったとされる故事にちなむものです

室町幕府を開いた
足利尊氏
一部の人には人気者の
饗庭命鶴丸
鎌倉幕府を倒した新田義貞の子
新田義興(ら)
日本史を彩る3名(ら)の超有名人が登場しましたね
そして、このエピソードの出どころは
太平記
脚本キャストともに不足はありませんよね? 大河ドラマの1話2話なら余裕で撮影出来てしまうくらいのエピソードであると言っても過言ではない、ご理解いただけますよね?
なのに!
誰もがスルーしてしまうこの地味さっ

けれど、これは仕方がないのかなあとも思っています。
というのもこの戦いは、日本史の中でも特に苦手な人の多い
南北朝時代
の中でも目を背けられがちな
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)
の流れの中の戦いの一つでもあるんですね。
日本史ファンでも理解しきれていないのがフツーなのかもしれませんし、まして案内板ごときに多くを説明できるはずがありません。

とはいえそれだと話が終わってしまうので、この戦いに至るまでのいきさつをざっくりお話させていただきます。
1221年、頼朝死後の混乱をついて後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げる
北条義時、長男の北条泰時を派遣。速攻で鎮圧する(承久の乱)
義時、後鳥羽上皇に付いた貴族や武士の領地、のみならず! 朝廷の持っていた膨大な荘園を容赦なく取り上げ東国の武士に分け与える
時代は進んで1333年。鎌倉幕府が滅亡、その後の南北朝の動乱で世の中がゴタゴタする
ここぞとばかりに貴族や西国の武士たちが土地を取り返しにかかる
足利直義(ただよし・尊氏の弟)それは横領に当たるから東国の武士に返還するよう求める
高師直(こうのもろなお)横領されるのがイヤなら実力で取り返せばええやろ、やる気満々の態度に出る
直義と師直の仲が急激に悪化する
足利尊氏は当初この問題には関わらなかった。しかし対立が深まると立場をはっきりさせなければならなくなり、ついに師直(西国)側に付くことになった
師直、兵庫県で死ぬ
直義、鎌倉で毒殺?される
争いの中心が西国から関東に移ると、それに乗じて上野(群馬)の新田勢、征夷大将軍宗良親王、北条時行などが挙兵。南朝勢に加わり埼玉東京神奈川の各地で激しい争いとなる

この、埼玉・東京・神奈川のあちこちで起こった一連の戦いを、まとめて
武蔵野合戦
と言います。今回紹介する戦いはその一つで「小手指ケ原の戦い」と呼ばれることが多いようです。小手指ケ原の戦いは新田義貞の鎌倉攻め時の方が有名なので少しややこしいんですけどね。
それはともかく太平記の記述を信じるならば(信じてないけど)この日の小手指には
北朝方の足利尊氏軍10万騎
南朝方の新田軍10万騎の
計20万騎が集結しました。

狙うは尊氏の首ただ一つ!!
新田兄弟が7万余騎、脇屋義治が2万余騎、宗良親王の数字は掴めませんでしたが数を合わせると数千騎ほどでしょうか。南朝方はヤオコー椿峰店付近から、 誓詞橋 (せいしがばし)林地区、入間市の宮寺付近にかけて、フルメンバーの10万騎を配置することが出来ましたので士気は最高潮に達していたであろうと思います。

対する足利軍は
先陣に衣装を赤で統一した3万余騎
二陣に全員が白馬に乗った27000騎
その後ろに尊氏のいる本隊を守るかのように配置されたひときわ華やかな6000騎
この隊こそが今回の主役
当代無双の美少年、饗庭命鶴丸率いる3番隊
その名を、花一揆。
美少年が6000の兵を率いていた、なんて言うとかなりカッコイイんですけどね。なんかね、ちょっと様子がおかしいんですよ。太平記の記述を見てみましょう!
色鮮やかな甲冑に薄紅色の印を付け、兜に梅の花を挿す若武者のみの部隊
ピンクの印と
頭に梅の木の
ヤングばかりの部隊ということですね。

太平記はこう続きます。
花の部隊は若武者だから戦争の経験も少なく、元気はあるが深い考えはなかったので、将軍(尊氏)の陣に逃げ込むものが後を絶たず、児玉党に蹴散らされてしまった
なぜ児玉党だったのかは一先ず置いといて、この記述から察するに花一揆
ほとんど戦力になってないですよね? というか戦力として期待されてませんよね?

命鶴丸は尊氏の寵童(ちょうどう)でした。
ちょうどうとは可愛がられていた子供。つまり「尊氏に可愛がられていた子供」ということなのですが、可愛がられたといってもイイ子イイ子されるという意味じゃないですよ? 詳しくは存じませんが、きっとあんなことやこんなこともしてたんでしょう、男同士で
別の資料に、こんな記述があります
1353年、尊氏が京都へ戻ることになったとき、自分が着用するコテとスネアテは武田信武の使っていたものが良いということになり入手した
それを見た命鶴丸は、こんなん保元・平治の頃の具足ですよ。時代遅れで田舎の猿回しぐらいしか使いません。意見した
命鶴丸、あろうことか将軍足利尊氏が「良い」と言ったものを「時代遅れの猿回し」言いやがりました!!
しかし足利尊氏
おまえは昔のことを知らないのだ、ワハハハハ
笑った。

花一揆は戦力というよりも「お飾り」的な存在だったのかもしれませんね。本隊の回りにきらびやかな美少年隊を配置することで将軍を引き立てる。そのついでに
ちょっといくさを体験してこいやwww みたいなwww
尊氏率いる北朝方の余裕をこのあたりからも感じることが出来ます
が!
足利尊氏、この余裕が大きな仇(あだ)となってしまいますwww
尊氏は自分の前にはべらせていた花一揆が次々に逃げ戻って来たために本隊を動かすことが出来なくなってしまいました
それを見た新田義宗隊は

勝鬨(かちどき)!!
今こそが機と尊氏のいる本隊目掛けてフル加速!! 尊氏の目前へと迫ります
が!
この場面は本題ではないので、最高の場面ではありますが今回は割愛させていただきます。
続きが気になる方は太平記、または太平記的なものをご参照下さいませ。

花一揆を蹴散らしたのは、なぜ児玉党だったのか。
梅の小枝を兜に差した花一揆隊を確認した新田義宗は、隊の中の児玉党を集め前線に出しました。

児玉党とは、関越自動車道の本庄児玉インターチェンジ付近に勢力を持つ、武蔵七党と呼ばれる武士団の一つです。
有名どころでは、一の谷の戦いで平重衡を生け捕った庄家永(しょういえなが)や、かき氷でお馴染みの阿左美氏といったところでしょうか。先日紹介した小代さんも児玉党の一員でしたね。
この児玉党の家紋が軍配団扇紋(ぐんばいうちわもん)

要は「うちわ」だったんですねwww
つまりはこういうことですよwww



いろいろググってみましたが命鶴丸が児玉党に追い散らされた、という記述は出てくるものの、児玉党の家紋がうちわだったから、という話にまで踏み込んだものは見つかりませんでした。
ちなみに、この話の出典はコチラです。

なんでもネットで分かると思ったらダメですね。この一冊に出会わなければ、自分もずっと「ただの古ぼけた梅の木」として見ていたかもしれません。
新型コロナの一日も早い収束
そして図書館の再開を心から望んでいます。

ありがとうございます。
ご先祖さんの登場嬉しく思います。
庄(蛭川)高家 家弘子 庄四郎刑部丞
家國 高家子 来目(久米)四郎左衛門尉 武州来目河(久米川)を領す
時國 家國子 久米太郎右衛門尉
武蔵武士や児玉黨の末裔は大勢いると思います。
末裔のオフ会でもあれば楽しそうですね!