血洗島と手計村【深谷市】
恐ろしげなるこの村名の影には幾多の伝説と口碑が伝わっている
by 渋沢栄一
渋沢栄一も認める、恐ろしげなる地名
深谷市血洗島(ちあらいじま)
今回はこのおどろおどろしい地名の由来について考えてみたいと思います。
大河ドラマ「青天を衝け」の舞台になることも決まっておりますので、予習の意味も兼ねてどうぞ最後までお付き合いくださいませ!

幾多の伝説がある
そう渋沢栄一も言うように、血洗島の由来にはいくつかの説があります。主だったものは
1・赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれその傷口をこの地で洗った
2・血洗は当て字でアイヌ語のケッセン(岸、末端などの意)が語源ではないか
3・利根川の氾濫により「地が荒れた」または「地が洗われた」の「地」がいつしか血になった
4・この辺りで合戦があり源義家の(一説に奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片腕を洗った
3の地が荒れた説はもっともな感じがしますけどねえ、わざわざ地を血に置き換えるなんてことありますかねえ、無いですよねえ
なので奥州遠征だの片腕を切り落とされただのディテールのやたら細かい「4」の説を採用し話を進めていくことにします。
先ず、義家の奥州遠征を考えますが、これは「後三年の役 」で問題ないですよね。切り落とされた腕の主は、義家に従い後三年の役に参加していました。
腕の主が何者なのかは分かりません。ただ、武蔵七党のひとつ、猪俣党の誰かなのは間違いないようなので、仮に「猪俣A」としておきます。

大丈夫か --- !!! A---!!!
寒さ、食糧不足、落ちない柵(城)
後三年の役は義家軍にとって厳しい戦いになりました。
その長期間に及ぶ戦いの中のどこかで、猪俣Aは「腕を切り落とす」ような大きなケガを負ってしまいました。
さて、その切り落とした腕ですが…

苦楽を共にしてきた私の体の一部ですから、持ち帰ってきちんと故郷の土に返してやりますわwww

どどど、どうしたんじゃその腕!?
いやあ不覚をとってしまったわいwww
しかし出羽に置いてけぼりにするのもかわいそうなので
持って帰ってきたwww

で、墓をつくって供養してやりたいと思うので
キレイに洗ってもらっていいかしら?

この場所こそが後の血洗島ですね。今まさに血を洗いましたからね。血洗島の始まりはきっとこんな感じだと思うのですが違いますかねwww
月日は流れ
猪俣Aが深谷の地に
片腕を埋葬してから69年
摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂、武力衝突に至るという大事件が勃発します
保元の乱です。
保元の乱と続編の平治の乱には埼玉県に縁のある武士がたくさんたくさん参加しています。特に「義平17騎」などはかっこ良すぎてこれを知らしめたら2度と「ダサいたま」などと言われなくなると思うのですが、それはさておき
保元の乱を記録した保元物語の中の武蔵武士一覧、猪俣党の中に
手薄加七郎(てばかのしちろう)
という男の名前が見えます。また、別の記録には
源義朝に従う手勢の者どもは、鎌田の次郎正清、岡部の六郎、近平六、河匂(かわわう)三郎
手墓の七郎!!!
猪俣Aは奥州から持ち帰った片腕を埋葬し墓を建てました。
片腕を失いながらも戦った猪俣Aの武勇は、そしてその腕を置いてけぼりにするのはかわいそうだと持ち帰り墓まで建てた「ちょっと変わった人」の評判は、きっと武州中に知れ渡ったことでしょう。

聞いたよ。手の墓がほとんど観光地化してるそうじゃねえか。手の墓一帯も安堵してやるからよ、以後も励めいっ
もしかしたら義家直々に手墓の地を安堵されたかもしれませんwww
実際、鎌倉時代の文献には「手墓村」の文字が見えるそうです。
手墓が苗字じゃ縁起が悪いってことで手薄加(てばか)になったり、本庄市で起こった合戦に手斗河(てばか)という武将が参加していたり、手墓村じゃちょっと、ということで

今に残る手計(てばか)
になったりはしますが、切られた手を洗ったので血洗島。その手の墓があったので手計村
「4」の説を採用することで、この二つの村の紐づけがスムーズに成り立つような気がするのですが、如何でしょうか。

地名にはその土地の記憶が刻まれています。
なので、うれし野やら、ゆめみ野やら、希望ヶ丘やら。不自然にポジティブなキラキラ地名に安易に変えてしまって良いはずはないのですが、これも世の流れ。歴史あるこの二村についても「イメージが悪い」という理由から変更についての議論をされた過去があるかもしれません
残しておいてよかったですよね。大河の舞台がぽっと出のキラキラ地名じゃかっこつかないですもんね。

時代は進んで明治22年。血洗島村、上手計村、下手計村、大塚村、横瀬村、町田村、南阿賀野村、北阿賀野村の8村が合併「手計村」が成立しますが、村名については大いに揉めました。
そこに登場するのが
地元の盟主、渋沢栄一
渋沢は紛糾している村名を
八つの村が力を合わせて日本の基、すなわち日本という国の模範となるようにとの思いを込めて
八基村と改めました。

違います。八基村、やつもとむらです。
ただ、基と墓…。ただの偶然とは思えませんよね?
100%の想像になってしまいますが
手計は絶対に名乗りたくない派と
歴史ある手計は絶対に譲れない派。
その譲歩案として渋沢は墓によく似た「基」という字を選び双方の顔を立てた、というか強引に押し通した。

もしそうだとすれば、渋沢栄一
日本の模範となれとか、これっぽっちも思ってないですよねwww

群馬県前橋市の滝沢不動尊にも、こんな話があります。
上杉謙信が26歳の鎌倉攻めの時、滝沢不動尊を訪れて必勝祈願を行なった際に、戦のお守りとして不動尊の右腕を切り取ったそうです。
しかしながら、「不動様の手を持っていると負け戦になる」との神のお告げがあり、途中、埼玉県深谷市にある下手計鹿島神宮の不動明王の体内に手厚く奉納したとされているそうです。
義家の伝説以降、数百年後の1561年頃(鎌倉攻め)にも手計村の伝説は伝わっていたようですね。
当時にも、戦と手墓との関係が伝わっていたのでしょうか。
小生の知る限りでは、上手計、下手計、には手計の姓は無いと思います。1935年(昭和10年)当時では、現在の深谷市岡部だけに数軒、本家は今のウナギ店(うな和)、ここから、現在の藤岡、桐生市にも、ちなみに琴勝峰のルーツはこの本家で、琴勝峰の曽祖父はうな和(当時は農家)の出身です。ちなみに読みは テバカ テバカリは誰かの想像読みでは無いでしょうか?