調神社より旅立つ君に思いを馳せて【さいたま市】
もたもたしてるとあっという間に年が明けてしまいそうな年の瀬なので前置きなしで行きますね!
今回は初詣に赴く方も多いであろう埼玉屈指の人気神社
調神社の謎について見ていきます!!

あ、今しらべじんじゃって読んじゃいました?
ですよねwww 正しく読める人なんてそうは居ないですよねwww
調神社の調は「つき」と読みます
つまり正しくは「つきじんじゃ」なのですが、浦和民につき神社と言ってもほぼほぼ通じませんので、ボクも浦和民と同じように「つきのみやさま」と呼ばせていただくことにします。読みにくいとは思うのですがココはホント通じないんでwww
ではなぜ調を「つき」と読むのか。
これは単純です、調は「つき」と読むからです。試しにお手元のスマートフォンで「つき」を漢字変換してみて下さい。
調と変換されますよね?

つきのみやさまは神社にあるべきはずの「鳥居」がないことでも有名です。
地域で採れたお米や布はつきのみやさまに集められ、ここから神宮とあるので恐らく伊勢なのでしょう、はるばる三重県まで運ばれていきました。その搬入搬出の妨げになるとの理由で、鳥居は「取り払われた」と由緒書きには説明がありました。

つまり「つき」とは貢物(みつぎもの)のつき。
みつぎも調と変換されますので調神社でつきじんじゃ、それを親しみを込めつきのみやさまと呼んでいるということですね。
うさぎさんがたくさんいるので月に縁があると信じている方も多いのかなと思うのですが、月もうさぎさんも直接の関係はないのかもしれませんね。

かわいいけど、けっこうでかいすね www

うさぎ汁ブシャーーーーーーーーー!!!www
以上が、調神社を「つきのみやさま」と呼ぶ理由です。知らなきゃ読めない難読地名ですが知ってしまえばどうってことはないですよね。調は「つき」とフツーに読むわけですからねwww あースッキリしたwww

え、スッキリしない!?
調のどこに貢物要素があるのかって!?
おっと、これは日本史の授業で習いましたよ~
調とは~
租庸調(So-Yo-Cho)の調ですYo!
それでは租庸調についてざっくり説明しますね。
租庸調とは律令制で定められた租税制度。租は米で納められ主に国・郡の財源となった。庸は京での労働。無理な場合は米や布で納められた。調は布製品。地域の特産品(塩や干物や染料)も認められた
万葉集の第14巻に、こんな歌があります。
たまかわの さらすてつくりさらさらに なにそこのこの ここだかなしき
歌の意味はよく分からんのですが「たつくり」とは麻で織った布のことだそうです。その布を多摩川の流れにさらさらとさらしている光景が目に浮かびますね。
それはともかく埼玉(武蔵国)から献上された主な貢物は「布」でした。

布はつきのみやさまに集められ、もちろん徒歩で伊勢神宮に運ばれました。
伊勢神宮まで何日を要したのかは分かりません。
けれど律令制とはいろいろ事細かに決めやがる仕組みで、埼玉から京都までの往路は29日、復路は15日と定めていました。なのでそれに近い日数をときには野宿で歩き続けたのはまず間違いないと思います。

無事伊勢神宮に到着し貢物を納めます。
とっとと埼玉に帰りたいと思ったことでしょう。けれど帰りの食料はどう確保すれば良いのでしょうか。エライ人たちは「勝手に帰れ」というスタンスです。
手元の参考文献、といってもマンガ日本の歴史なのですが、そちらを参照すると

そら帰れませんわなあ…。
意を決し帰路についたところで野垂れ死ぬのは明白です。それなら都で物乞いでもしていたほうが余程まし、自分だったらきっとそう考えてしまうでしょう。

初詣だけではなくインスタ映えでも評判の、浦和のつきのみやさまです。
租庸調に思いを馳せることの出来る場所など埼玉ではボクの知る限りココだけですので、立ち寄る機会があれば、かつてこの場所から重い荷物を背負い旅立った人がいたことを、そして帰ってこれなかった人もきっと多かったということを想像してみて欲しいなと思います。

埼玉県は東山道に属していましたので、伊勢を目指す人は社を出て右、中山道を大宮方面へ向かったはずです。
庸(兵役)でお呼ばれした人は、万葉集を見る限り東海道を使っているので出て左、戸田方面へ向かったのかなと思います。
