岩槻、運命の二週間【埼玉三國志②】
明治4年、ついに廃藩置県が実施され埼玉県が成立。県庁は岩槻に置かれることになりましたが、岩槻には
適当な建物がなかったため
浦和県の庁舎をそのまま仮庁舎として使用することになりました
というようなことがどの資料にも書いてあるので
岩槻には建物がなかった説
を採用されている方も多いのかなと思うのですが、岩槻にはなんなら岩槻城もありますからね、建物がないというのはちょっとおかしな話ですよね?
ええ、真相はやはり別のところにありました。
しかしこれについては少しばかり逡巡しました。
どうも埼玉県にはこの真相を知られたくない何か理由があるようです。
誰かが隠したものを興味本位で書いてしまって良いものなのか。書くことで傷つく誰かがいるのではないか。素直に建物が無かった説を採用すればいい、そんな想いも私の中には生まれていました。
そんなある日のこと、岩槻の街を散策していた時のことです

ぜぜぜ、全部書いてあるやないかい!!
というわけで! 県庁所在地だった岩槻は、なぜその座を浦和に譲ることになったのか、芳林寺にあるこの石碑をもとに辿っていきたいと思いますっ
今となっては隠すようなことでもないと思うので、ぜーーーんぶぶっちゃけちゃいますねwww

それでは、明治政府第二のクーデター、廃藩置県に埼玉県民はどう巻き込まれたのか、簡単におさらいしておきますね。
廃藩置県は明治4年の出来事でしたが、せっかくですので
廃藩置県は明治4年の7月から
と覚えてしまいましょう。先ずは明治4年の7月、藩であった
忍(行田)・川越・岩槻の三藩が県になります
しかしこれは「明治政府がワンクッションを置いた」というような意味のものになったようです。藩主はそのまま県知事的なものに、藩士は職員的なものになったのみで、県域も変わらず、実態は何も変わってはいませんでした。
そして明治4年の11月14日
そうですね、埼玉県民の日ですね
忍県と岩槻県が廃止され旧埼玉県が成立
今回は触れませんが川越県が廃止され荒川の西側に入間県が誕生しました。同時にここが大事なポイントになります
それぞれ三県の藩主(県知事)は、はいからさんが通るで説明すると伊集院家ですね。華族という華やかな地位に置き換えられ、言葉は悪いかもですが、それぞれの支配地を追い出されていきました。

そして長年藩を支えてきた藩士たちですが、こちらは雀の涙ほどのお手当は出たものの
基本クビ
それでもなお郷里に留まり行政の担い手として活躍する人もありましたが、多くの者が先祖代々の「武士」というポジションを奪われ、農業に転じる、あるいは新たな商売を始めるなどの道を選び、しだいに困窮していくことになりました。
もし自分が藩士の立場だったらどうでしょうかというお話です。
260年続いた江戸幕府が暴力により滅ぼされ、勤め先である藩が潰され、長年仕えていたお殿様が追い出され、先祖代々の武士というポジションまでもが消滅させられ放っぽり出される

さて岩槻に戻ります。
旧埼玉県は
岩槻県・忍県・浦和県が一つになり成立しました
旧埼玉県の県庁が岩槻に置かれた理由は、県域において一番大きな街が岩槻であったからでした。
現在の岩槻から想像するといまいちピンときませんが、岩槻は二万三千石の城下町でしたので、これは妥当だろうなと思います。そして名称ですが、これは岩槻が「埼玉郡」に属していたため郡の名を取り「埼玉県」と命名されました。

この旧埼玉県に初代県知事として赴任されてきたお方が、これは名前を出させていただきますが
薩摩男児、野村盛秀さんでした。
ちなみにナンバー2は白根多助さん、長州のお方です。
今回は特別に、初代県知事である野村さんと、もう一人、冒頭で紹介した石碑の文章を書かれた方ですね。岩槻町の初代町長、秋葉さんをお招きしておりますので、当時のことを詳しく聞いてみたいと思います。それでは本日はよろしくお願いします
こちらこそよろしくお頼み申す

先ずは野村さんにお伺いします。岩槻をわずか二週間で諦めたと伺いましたが、どのような経緯があったのでしょうか
県知事に任命されたとき、わしは東京常盤橋の越前候の屋敷にいたのだが、埼玉はいろいろ大変だぞと聞かされていてな、それで部下に命じて岩槻を視察させたのだ。すると岩槻ではすでに県庁設置の反対運動が盛り上がっているというではないか。この点については秋葉さんの方が詳しく知っているであろうな、当事者だしなwww
まあ我々にしてみれば、藩を無くされた上、新政府の役人に押しかけられ、野村さんご本人の前で言うのもなんですが威張り散らされる訳ですから面白くはないんですな。ただ県庁が来るのを反対していたかというとそれは少し違うんですね
ほう、部下からは県知事暗殺も辞さない状況だと聞かされたがな

岩槻藩士で家老格の家柄… 名前は伏せますが剣術の達者な男がおりましてな。御一新の前なら剣術だけで立派に家門が立ったのですが、廃藩置県の後はそれではもう飯が食えない。そんなわけで
県庁へ仕官したいと希望を抱いたんですな
ちょ、ちょっとすいません。ムカつく薩長の役人と、県庁が来ることを拒否したのではなく、逆に県庁に就職したかったということですか?
その通りですね。ところがこの男
頭が出来ないので採用されない

それを遺恨に思って、長刀の落し差しを振り回すだの、県庁舎として指定された芳林寺に寺を貸すなと脅しをかけるだの、散々嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな
ちょ、ちょ、ちょっとすいません! 今の「寺を貸すな」がとても気になったのですが、150年後の埼玉県では「岩槻には適当な建物がなかったため県庁を浦和に譲った」というのが常識になっています。もしかして建物が無かったというのは物理的に存在しなかったのではなく
新政府に貸す建物なんてねえ!
だったということですか!?
岩槻は大きな町だったから、建物が無かったということはないな。だからこそこの男が暴れさえしなければ岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都として、大いに発展していただろうなと思うのです。重ね重ねこの男の仕打ちが恨めしく思われますよ
この方がもう少しお勉強の出来るタイプであれば、岩槻にはまるで違う未来があったかもしれない、ということですね…
はい、私はそう感じておりますよ

野村さんはこの話ご存知でしたか?
頭の出来の悪い藩士が、というのは覚えがないが、岩槻には不平分子が多くあるので県庁を設置するのは困難であるという報告は受けていた。しかしかといって「岩槻には怖いから行けません」と太政大臣様に言うわけにもいかないしな、ほとほと困り果てたのは覚えているよ
なるほど、ここで浦和案が浮上してきた訳ですね
部下からの進言があったのだ。幸い浦和県の県庁舎がそのままになっている。浦和は幕府直轄領などの多かったところ、因果関係のない他人支配には慣れておるとな。浦和からのアピールもあったようじゃ

県庁所在地が浦和になった本当の理由、よーく分かりました、ありがとうございました。ただ一つ疑問なのですが、浦和を「仮」の県庁所在地としましたよね? これは何か理由があったのでしょうか
あー、それなwww それについてはずいぶん揉めたのだwww
埼玉県は県庁が「埼玉郡岩槻町」であったから埼玉県と命名されたのだ。しかし県庁を浦和に移すとなれば浦和は足立郡
足立県とするのが筋ではないか?
足立県… 埼玉という名称に慣れ親しんだ現代からすると賛同しかねるネーミングですが、埼玉県が発足してまだわずか二週間ですからね。変更の余地はあったということですね
そうだ。ただ勝手自由に変更出来るものでもない。変更をするなら太政官にお伺いを立てなければならないだろうし予算も伴う
で、仮ということに?
仮なら仮だから万事問題なかろうwww ゴム印なんかも発注しちゃったしなwww
浦和が県庁である合理的な理由が何一つないじゃないですか!
そうじゃ、歴史的惰性じゃwww

それでは最後に。本日お話いただいた経緯について、埼玉県の正式な歴史書、埼玉県史は何ひとつ触れておりません。これはなぜだと思いますか。先ずは秋葉さんからお願いします
頭の出来ないのがいたから県庁が浦和になったなどと書けるわけがないであろう。岩槻だけでなく埼玉県の恥にもなる
しかし秋葉さんは書き残してくれました、本当にありがとうございました。秋葉さんが書いてくれなかったら真実は永遠に闇の中だったかもしれません。それでは、野村さんはどう思われますか?
おねえちゃんよ、こう見えてわしは戊辰の戰を戦い抜いた薩摩の男なんだぜ? そのわしが
不平分子が怖くて岩槻には赴任出来ませんでしたなどと県史に書かせる訳がないであろう!
だから岩槻は利不便、浦和は中山道沿いで東京からのアクセスが良いなどの理由を後付けしたのだ。察してくれいっ
そうですよねwww 建物がないとかアクセスが悪いとか、県庁所在地にする前に調べとけって話ですものね。そんなこったろうと思ってましたwww
本日はありがとうございました!

そのすぐ直後の明治5年
熊谷が入間県の県庁を川越より奪い取るべく活動を活発化させます。
熊谷のバックにはまたしてもこの男、渋沢栄一がいました。

