大宮県と浦和県【埼玉三國志①】
どもこんにちわ! ゴケゴーちゃんですっ
早速ですが今回は、埼玉県民の共通認識でありながら、いまいちその理由が分からない
浦和と大宮はなぜ仲が悪いのか
について見ていきたいと思います!
県庁所在地を取り合ったんだろ?
はい。浦和と大宮の因縁は県庁所在地を奪い合ったその経緯に端を発していると思います。ただ歴史は勝った側が作ると言いますが、この戦いに勝利した浦和に
多くを語りたがらない
雰囲気があり、実際どんな出来事があったのかきちんと歴史として残されていないような気がするんですね
なので、扱いにくいテーマではあるのですが数回に分けまとめさせていただきます。刺されない程度に精進いたしますのでどうぞ最後までお付き合いくださいませ!

起点は明治4年の廃藩置県
藩であった岩槻・忍・川越の三藩がそれぞれ県になりますが、浦和と大宮の戦いは、それより少し前の
明治2年に始ります
少しだけ解説しますね。
慶応3年の大政奉還により「幕府の直轄領」が明治政府の管理下に置かれることになりました。
その後、明治政府は全国を「府・藩・県」の三つに分けることを決め、明治2年にすべての土地と人を中央政府に帰す、いわゆる版籍奉還を断行します。
ざっくり言うと、藩を潰すのは大変なことなので今すぐはやらないけれど、とりあえず幕府領は府と県にしちゃうぞ、ということですね。
この「府藩県三治制」に幕府の直轄地であった浦和と大宮のある「足立郡」が引っ掛かり、まず武蔵県が成立。そしてその時の県知事より
大宮は支配地内でもっとも便利で郷宿にも差し支えない土地柄であるので、ここに庁舎を建設し大宮県としたい
というリクエストが提出され、明治2年1月28日
大宮県が成立します。
ところが同年9月、大宮県は県庁舎を浦和の鹿島台に移し、名称を
浦和県に変更します。
この史実をほとんどの資料は
変更した
の数文字のみ、丁寧なものでも
浦和の方が東京に近いため利便性が高かった
程度の文章で処理してしまうのですが、県庁舎の移転という大きな出来事の割にはちょっと扱いが淡白ですよね? 大宮ではダメだった何か理由があるはずですよね?

大宮市史にありました
殴った方は忘れてしまうけど、殴られた方はずっと覚えている
ゲンコツと同じですね。浦和の企てにより県庁舎を奪われた大宮だけが、この時のことを記録に残してくれました。
それでは、大宮市史に残された「県庁舎が奪われるまでの経緯」について見ていきます。角が立つかもしれないので個人名は出さず、いつものキャラのみで進めますのでその点お察し下さいませっ

大宮県は成立しましたが、しばらくのあいだ県知事は大宮には着任せず、東京の馬喰町で全ての執務を取っていました。しかしそれでは何かと不便が生じますよね
大宮県は大宮に県庁舎を建設することを願い出て、政府より正式にその許可を受けました
しかし…

大宮県はとりあえず今の高島屋のある場所に仮庁舎を設置し下っぱの役人を配置。警察と裁判の事務仕事のみを大宮で行うことにしました。
同じ頃だと思うのですが、明治政府は各地に「巡察使」を派遣し各地の実情を探索させています。大宮県の報告書が残っているので見ておきますね。
大宮県の仮庁舎は当初、大宮宿名主宅に建設した。その後、正式な庁舎建設の場所を探している。浦和宿かあるいは与野町。または別所村、沼影村(浦和)のうちに決めかねている。また、県庁誘致のため各地で競争が起きているらしい。早く至当な場所を決めることが民心統一のため望ましい
大宮県は政務に厳格なのはいいが治安維持に費用がかさみ苦情が出ている。鷲宮神社領に新県政が浸透していない。銭相場に違反があり近県から苦情が出ている。担当者の仕事に不公平があること、また経費の無駄使いがある。東京在住の知事に注意させた方がいい
どう思います?
与野が県庁所在地になる可能性があった?
そうですねwww 与野が県庁所在地になっていればいろいろ丸く収まってたかもしれませんねwww
与野案が本当に検討されていたかどうかはともかく、浦和の影がチラチラと見えません?

記録が残っていないので、あまり適当なことは言えないのですが、この後の大宮の動揺から察するに
3月の時点ですでに浦和にやられていた
あくまでも個人的な感想ですが、私はそんな気がして仕方がないんですね。
大宮県は3月に一度OKの出た県庁舎の建設を少し待つよう言い渡されています。
明治政府は巡察使を派遣し、巡察使は大宮は県庁所在地に相応しくないと言わんばかりの報告をしています。
そして、ほぼ同じタイミングだったと思います

浦和が県庁誘致運動を表面化させました。
浦和の鬨の声を聞いた大宮はすぐに大宮氷川神社に対し
引留めの祈祷を七日間行うことを依頼し
なんとか大宮に
お戻りいただけるよう
哀願ともとれる文書を作成しています。

浦和と大宮が県庁所在地を奪い合ったのは紛れもない事実です。
しかし、明治2年の第一ラウンドは、大宮市史にある「引留・お戻り」という2つのワードから受ける印象のみで発言しちゃいますが
出来レースだった
浦和の企てを大宮が知った時にはもう何もかもが決まっていて、大宮はただ
浦和に変更するから
その通告を受けただけだった。
記録が乏しいため本当のところはやはり闇の中なんですけどね。

ちなみに埼玉県の正式な歴史書である新編埼玉県史(通史編)は以上の出来事について、本当に忘れてしまったのか、書き残すほどではないと判断したのか、隠ぺいを図ったのかは存じませんが
まったく触れておりません。
浦和市史も同様です。それどころか浦和市史は
大宮に適当な庁舎が得られなかったので仕方なく
とも取れるような一文までもを残しています。

さらにWikipediaに至っては
浦和が県内でイチバン賑やかな町だったので移転することになった
浦和にやたら都合の良い説を採用しているのですが、いったいどの数字を拾って「最も賑やか」などとぶっこきやがったのか、そこはまったく分かっておりませんwww

