小代氏の手紙【東松山市】
埼玉の歴史を紹介するぞ!
などというブログを始めてしまいましたので、難解と思える書籍も泣きごとを言わず最後まで読み切るよう心がけているのですが

鎌倉武士の実像は、ちょっとボクには早すぎましたねえ…
ただ、そんな難解な一冊の中にも
小代伊重の置文
心をわし掴みにするような「お手紙」の記述がありましたので、今回はそのお手紙について見ておきたいと思います。
鎌倉時代の武士が、何を大事にし、何を求めていたのか、その点が現代のボクらにもよく伝わる、実に興味深い、そして切ないお手紙でしたので、どうぞ! 最後までお付き合いくださいませっ

手紙を書いたのは東松山市正代に住まわれていた小代伊重(しょうだいこれしげ、以下コレシゲ)というお方です。
それでは早速見ていきますね。

源頼朝公が奥州藤原氏を攻めた時、小代行平(しょうだいゆきひら)は先駆けて実績を上げたので恩賞として陸奥国気仙郡を与えられた
しかし行平は気仙郡は土地が狭いと言ってこの恩賞を辞退した。


頼朝公が伊豆山神社の石段を下る際
行平の肩を借りて
お前を心安き者と思うぞ
とおっしゃったwww

小代行平とはコレシゲが手紙を書いたざっくり100年ほど前に、一の谷の戦い、奥州藤原攻め等に参加し実績を上げた鎌倉幕府の中堅どころの御家人です。
椀飯(おうばん)の責任者も務めるなど
あ、飯椀というのは今はまっかく見かけませんが、昔はサラリーマンがお正月に社長や部長のご自宅に挨拶に行く「年始回り」というのがあったんですね
頼朝の元にやってくる御家人と幕府側の時間的な調整や、食事のメニューなどを行平は任されていたのでしょう
行平は頼朝にとって相当に信頼のおける御家人の一人だったのだと思います。

嵐山町大蔵の宿で「行平は来てるのかな?」と頼朝公からのお尋ねがあったので、梶原景時が「行平は御堂の供養があり遅れます」と申し上げたところ
なんと! それでは行けるものは皆 行平の御堂供養に参列せよっ
おっしゃったwww

ホントに上手だなと思いますねwww
こんなことされたら何があっても
一生頼朝様に付いていこうっ
絶対なっちゃいますよねwww

比企能員(ひきよしかず)が滅ぼされたとき、行平は北条時政に頼まれて北条邸の警備に当たった
北条殿のために行平ほど実績をあげたものはいない。

行平のひいおじいちゃんの代では武蔵国だけでも、児玉、入西(入間川の西側という意味)などなど、多くの所領を持っていたのに、行平の代になって所領が狭くなり、さらに頼朝公が亡くなった後は身に覚えのない讒言(ざんげん)を受けて正代以外の所領はみんな没収されてしまった
行平に罪が無かったことは将軍も知っているはずだから、万一の大事の際には一心に将軍のために汗を流し功績をあげ、所領を返還してもらい、小代の家を再興してもらいたい。
讒言というのは、ありもしないでたらめを上の立場の者に報告し、その人の立場を危うくさせるという行為です。今の社会でもよくあることなので「ざんげん」という言葉は覚えておくと使う場面に遭遇する日が来るかもしれませんね。

小代の岡の屋敷は、頼朝公のお兄さんである義平殿が、叔父義賢(よしかた)殿を大蔵で討った際、館を作られて住んでおられたところだから、義平殿を御霊としてお祀りしてある。ずっと怠りなく信心するように。

この場所には今も御霊神社があります。ただ由緒には鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀っているとあるんですよね。
飯能市には権五郎神社があり、そちらには「御霊が権五郎になったのではないか」という説があるようなので御霊神社はその逆パターンなのかもしれません。
もし義平のことを指す悪源太の「悪」という文字が神社には相応しくないという理由で権五郎をこじつけたのであれば、ちょっともったいないなあと思います。悪は悪いという意味ではありませんし、何より義平はめっちゃ男前ですからね。


行平が頼朝公にいただいたお手紙・感状の数々は、すべて行平から妻の河越の尼の御前に預けられていた
行平が亡くなった後、後を継いだ俊平が返却を求めたが、尼の御前はついに返してはくれなかった
これらの書類は原本でもコピーでも必ず見つけ出して持つべきだ。なぜなら書類に載せられた土地は、もし将来恩賞に預かるとき、自分らの所領だった、と由緒を述べて請求の材料になるからである。

行平の奥さんは鎌倉幕府の重鎮、河越重頼の妹さんでした。この事実だけでも小代氏がブイブイ言わせていたであろうことが想像できるのですが、この奥さんが旦那の亡くなった後、小代の領地を河越の物にしてしまおう企んだ、ということなのでしょうか? だとしたらそれは世知辛い話ですよねえ。養子とはいえ子の土地ですものねえ。

後三年の戦いを描いた絵巻物の中に、義家の対座に副将軍として児玉(後の小代)弘行が描かれているのを見たものがいる。しかしよからぬたくらみをした者が、絵巻の弘行の名前を消して別人の名に書き換えてしまったとのうわさがある。絵巻を見る機会があったならば確認し、もし書き直されていれば直してもらうようお願いすべきである。
所領共ヲ召シ上ゲ破レテ身ノ置所モナシトイヘドモ、我ガ身ニオキテハ一塵ノ誤ナキ間、定メテ立直ラントタノモシクオボユ
今は所領も没収され身の置き所もないが悪いことは何にもしていないのだから、必ず立ち直れる日が来ることを期待している
今年七三歳ニナル間、気力モ衰エタル上、今ノ歎ニ思ヒ怳テ筆ノ立所モ定カニ見分ケラレネドモ
今年73歳になり気力も衰え
嘆きに心も狂って!
筆を立てる場所も!
定かには見分けられないけれど!
それをあえて書いたので書き損じも多く、切って貼って切って貼ってもしてある。なので後で字のキレイな人に清書をしてもらうといい

但!
ただ!
懇切ノ心ザシニテ書タル状ナレバ
こんなんでも一生懸命書いたので
清書ノ状ニ加エ置クベキ者也
清書といっしょに保管しておいて欲しい
且ハ裏ニ行平ノ記録ノ状書タル反故ハ、年来志深ク承ハル人々ノ文ニテ記念ニモ置キタキ間、熊ト彼ノ文ノ裏ニ書キタル者也
特に行平の記録を書いた紙は長年お世話になっている方からの手紙の裏に記念としてわざと書いたもので、決してチラシの裏ではないから取り扱いには注意してもらいたい。

以上がコレシゲが子孫に宛てて書いたお手紙のだいたいです。
悔しい思い、切ない思い、失いかけている誇り、いろいろな思いを押し殺して言葉を綴ったこと。文字の間から溢れ出してくるようですよね。
嘆きに心も狂って筆を立てる場所も見分けられない
ぷっ
その姿を想像するとちょっと笑っちゃいますけどねwww


One comment on “小代氏の手紙【東松山市】”